
夕闇の迫る頃、私はいつも空を仰ぐ。
夕空に、月がいる。
その月を見つめ、私はいつも「夕月」を思い出す。
胸に込みあげる慟哭を抑え、月に、祈りを捧げる。
夕月は、白い小さな柴犬だった。
とてもやさしい女の子だった。
事情ある飼主から引き取ったとき、
彼女は我慢強くけなげに、空き家の中でじっと不安に耐えていた。
そして、我が家族となった。
私は彼女から、偉大な愛を教えてもらった。
偉大な勇気と、偉大な母性を教えてもらった。
夕月を忘れたことは一度もない。
彼女はいつも、この胸の中にいる。
夕月は、子を守るために死んだ。
命を懸けて我が子を守り、そしてこの世を去ったのだ。
最期の時まで、ひと言も弱音の声を上げなかった。
致命的な重体のその時でさえ、自分の力で立っていた。
私の帰りを待っていたのだ。
最後の力を使い果たした衰弱の中で、気の遠くなるほどの痛みの中で、
それでも、立って私を出迎えてくれたのだ。
家に向かう車中で、私は激しい不安感に襲われていた。
言い知れぬ不安が、胸を去らないのだ。
「家で何かがあった!!」と直感した。
アクセルを踏む足が震える。その震えが止まらない。
森に着いた。森は静寂のままだった。
だが着いた途端、そこが異常事態の気配に覆われていることを覚った。
身体の震えが止まらない。肚に力を込めて歩いた。
瞬間に、夕月の異常に気付いた。
立ってはいるが、頭の位置が低い。うなだれている。
いつもなら、いつもなら元気一杯の姿勢で、満面の笑顔で迎えてくれるのだ。
わたしはその時、彼女の身に起きた致命的な何かを感じた。
私の心は、「もはや助からない」ことを、直感したのだ。
もう、頭の中は真っ白だった。
足に力が入らない。もつれるように歩いた。
「夕月!」と、静かに声をかけた。
心は、張り裂けそうだった。
犬たちは異様に静かだった。みな、沈黙のままで私を見つめている。
私は冷静を努めてまず、夕月の身体を診た。
外傷や出血は目立たなかった。
だが、のど首の奥深くが、甚大なダメージを受けていることを、すぐに覚った。
回復不能なほどに破壊されていることを、直感で覚った。
「夕月・・・」 私は絶望で立っていられないほどだった。
歯を食い縛って、その場の様子を素早く観察した。
私の脳裏に、アクシデントの光景が映し出されていく。
ありありと、瞬間に映像が見えてくる。耐え難い心境だった。
夕月には子犬がいた。
生後2ヶ月になっていた。
「次郎」が綱を切って交尾してしまったのだ。
12歳に近い次郎が、まさかそれほどの元気とは・・。
夕月母子はサークルの囲いに入っていた。
だが子犬たちが活発だったので、地面に砕石を敷き、隣の犬舎との境にブロックを埋めた。
遊び盛りになる子犬たちが地面を掘ることが目に見えていたからだ。
隣には老いた闘犬種がいる。だから入念に境を補強した。
そのメスの闘犬種も保護した犬だった。
9歳を超え、その犬種としては限界に近い年齢だった。
重い骨格の大型犬は老衰が早く、寿命が極めて短いのだ。
もう、視覚も聴覚も臭覚も殆ど失っていた。
見えず、聴こえず、手探りの世界で暮らしているのだ。
とても可愛い犬だった。私を深く慕ってくれていた。
だが、犬に対しては異常なレベルの闘争心を持っていた。
人間が、「闘争心」の部分をひたすらエスカレートさせてきた犬種の系統なのだ。
人間の異常な身勝手が作った人為の闘争心なのだ。
だからその犬に罪は無い。その犬にとっても不本意な闘争心なのだ。
その子はとても可愛いかった。だが闘犬系特有の闘争心を持っていた。
ましてや目も見えず、耳も聴こえない。当然、警戒心は高まる。
警戒心を高めなければ生きていけないからだ。
警戒心は攻撃性につながる。不自由な我が身を守るために攻撃するのだ。
その老犬は、そのような状態の中にいた。
子犬たちの活発な躍動と好奇心は、私の想像を上回っていた。
私の想像以上に元気満々だったのだ。
子犬は深く深く穴を掘った。
夕月は懸命に子犬たちをなだめ、止めようとした。
だが、子犬はその行為に夢中だった。
ブロックの下まで掘って、そして遂に隣の犬舎に入った。
そして、老犬にじゃれかかったのだ。
瞬間に子犬は殺された。
老犬にとって、子犬は正体不明の侵入者だったのだ。
夕月は死に物狂いで子犬たちの掘った穴を広げ、自らも隣の犬舎に向かった。
老犬の犬舎には、まだほかの子犬たちが入ったままだ。一刻の猶予も無かった。
穴を抜け、犬舎に入った瞬間、夕月は真一文字に老犬に挑んだ。
勝てない相手であることを知っていた。自分も殺されることを知っていた。
だが、一微塵も躊躇は無かった。ひとかけらも気後れは無かった。
夕月は真正面から矢のように挑んだ。彼女のケガの位置で、それが分かる。
しかし相手は老犬とはいえ、あまりに体格が違う。何倍も大きいのだ。
老犬には、まだ柴犬を死に至らす力は充分にあるのだ。
いかに果敢に闘おうとも、到底敵わぬ相手なのだ。
夕月は一瞬で致命傷を負った。
だが、その重傷の身体で、彼女は子犬たちを逃した。
一頭の遺体を前に泣きながらも、ほかの子を逃すことができたのだ。
知り合いの動物病院は休みだった。
山を下り、峠を越え、別の病院で診てもらった。
事前に連絡したのだが、他に誰も客はいなかったのに、30分以上も待たされた。
夕月は、けなげに立っていた。
私の励ましに応え、ひと言も泣かずに、懸命に立っていた。
だが看護士のひと言は、「この子、泣かないねえ。。」だった。
彼女の発した言葉は、それだけだった。
私は答えなかった。
「そうか、分かった。命を預かる者の言葉が、そのひと言か!!
その感性で命を預かっているというのか!!
瀕死の状態で、それでもこの子は渾身の力で立っているのだ!!
分かった。もういい。夕月は私が看取る。我が家の森で看取るのだ。」
獣医は、薬をよこしただけだった。
森に帰り、夕月を抱いて寝た。子犬たちも一緒だ。
眠れるはずがない。我が子の命の瀬戸際なのだ。
目を閉じて、心で夕月を励まし続けた。
夜中、夕月が息を引き取った。
分かっていた。死ぬことは分かっていた。
だがそれでも、耐えられなかった。悲しみに、心が砕けた。
私は声をあげて泣いた。
夕月を抱き締めながら、蒼い闇の森のなかで泣いた。
夜空に、美しい月がかかっていた。
夕月と一緒に、慟哭のなかでその月を見つめた。
オーランが、ホウルを歌い始めた。
オリオンが、重厚なバリトンでそれに続く。
そしてみんなが、荘厳なコーラスを奏でた。
哀悼のレクイエムだ。レクイエムのホウルだ。
森に、悲しみのメロディーが響き渡る。
そのときの月を、そのときの歌を、今も忘れない。
「悍」の近くに、白い光が現われる。何度も現われた。
悍は夕月の子だ。私はその光が、夕月の魂の光だと感じた。
悍はもう10歳になるが、元気一杯だ。
私は夕月に誓った。なんとしてでも、子供たちを守っていくことを。
悍が立派に成長して元気でいることを、夕月もきっと喜んでくれているだろう。
**** WOLFTEMPLE ****