<2008年1月19日>

WILDFORCE は「心導身力」だ。

心が身体を導き、心が力の母体となる。

抽象的な精神論ではない。実際の話なのだ。

「術」ではない。術で本当の力は生まれない。

力が必要な時がある。

何としてでもその場を乗り越えねばならない時がある。

その時、頼るべくは自分に潜む力しかない。

だから、その力を高めていくことは、生きる上で必要だ。


ジムや教室を頼る人が多いようだが、術を憶えようとする人が多いようだが、

根本は日常の中にあることを知るべきだと思う。

日常の中で、家の中で、充分に己の力を高めていくことが出来るのだ。

日常の中で「習慣」としてこそ、初めて己の力となっていくのだ。

たとえば武道やヨガを習っても、それを日常の中で実践しない人が多い。

道場と日常を区別して考えているようだ。

武道は長久の歴史の中で「合理・合力・合気」を追求してきた。

瞬間の中で力を最大限に発揮するための動作を磨いてきた。

それは即ち「無駄の無い動き・合理の動き」だ。

そしてそれは即ち「美しい動き」だ。

美しい合理の動作には、美しい合理の姿勢が必要となる。

姿勢と動作は常に密着しているのだ。

そしてそれは、日常の中で活かさなければ意味が無い。

どんな職種の仕事であっても、それは活きるはずなのだ。

竹ボウキで掃く時でさえ、その本領は発揮されるのだ。

日常の中で活かす意識を持ち続けると、習慣になる。

借り物ではなく、己の姿勢となり、己の動きとなる。

そうなって初めて、とっさの時にその動作が出るのだ。


「力ではなく技だ!」と言う武道家もいるが、力は必要だ。

単なる腕力ではない。身体全体の力だ。全体の力が必要なのだ。

全体の力を、どうやって発揮するかを学ぶのだ。

自分で習得できる人もいるだろう。道場で稽古する中で習得する人もいるだろう。

さまざまな形の習得方法があると思うが、要は全体の力の発揮の実感だ。

全体の力を発揮するには、合理の動作が必要になる。

それを揺るぎ無く己の動作にするために「練習」があるのだ。

その練習を、日常の中で行なうのだ。


野性たちは、その「合理・合力・合気」を当たり前のごとくに実践している。

常に「身体全体の力」で動作している。

だから彼らの動きは美しい。

だが、単に「無駄が無い動き」のひと言で片付ける訳にはいかない。

そこには「渾身の生き様」が隠されているのである。

その全身全霊の生き方が、その動きを、その力を、生み出しているのだ。

彼らにとって、その動きと力は、生きる上で不可欠の条件だ。

それ無しには生きていけない。命が懸かっているのだ。

彼らは真にMAXの力を発揮しているのだ。


「火事場の馬鹿力」という言葉がある。

人も、普段では考えられない凄い力を発揮することがある。

無我夢中の力だ。

無我夢中になって一念になった時、思いがけない凄い力が発揮されるのだ。

眠っている力を、一念が起こすのだ。

身体の全ての力を、一瞬に総動員させるのだ。

極限に真剣になった時、それが可能になるのだ。

だがその「火事場の馬鹿力」も、己の潜在力が高いほど大きくなる。

だから潜在力を高めておくことが、イザという時に極めて役立つのだ。

イザという緊急事態は、いつでも起こり得るのだ。

たとえば強力な大型犬同士の闘争を一人で分ける時、この力が必要になる。

犬の闘争時の力は凄い。体験した人でなければ想像できないだろう。

ましてや大型犬のその時の力は、途方もない力だ。

もちろん、叩いたり蹴ったり引っ張ったりして分ける訳ではない。

それは愚の骨頂だ。そんなことは決してしてはならない。

片方の犬だけを止める訳にもいかない。同時に、双方の犬を離すのだ。

この「闘いの分け方」は話が長くなるので別の機会に記すが、

その時には尋常な力では対処できないから、無我夢中の力が登場するのだ。

彼らのダメージを最小限に食い止めるために、一刻も早く止めるために、

己に眠る力の全てを発動させるのだ。(闘いのダメージは人の想像以上に大きい)

実際には、その無我夢中の力だけで闘いを分けられる訳ではない。

彼らの力はそれ以上に凄いのだ。

だが彼らは、その時の私の「無我夢中」を感じ取るのだ。

必死の状態の最中でも、それを感知し、私を立ててくれるのだ。

それにしても、力の入った大きな彼らを分けるには、尋常な力では無理なのだ。

なんとしてでも、己に潜む全ての力を出動させねばならないのだ。


肉体が生きるには「材料」が必要だ。つまり食事だ。

他のページにも記したが、食事は重大だ。

内容と共に、「食べる意欲」も重大だ。

「食欲」というニュアンスとは少し異なる。食事に対する姿勢だ。

野性たちは絶食に強い。食が無い時には忍耐する。

だが、食があるときにはしっかりと食べる。全身で食べる。

適当に食べたりはしない。いい加減に食べたりはしない。

その食が己の力になることを知っているから、だから全身で食べるのだ。

実際、その姿勢で食べると、食はしっかりと身体の力になっていく。

我が家族を見ていると、それを実感する。

我が家族に「ショウ(證)」という犬がいる。

彼は未熟児に近かった。もしかして育たないかも知れないと思った。

他の兄弟に較べてひときわ小さく、動きも非常に危うかった。

(兄弟の中で、ひときわ小さな子が生まれる確率は高い)

だが、彼は頑張った。必死で頑張った。

何頭も兄弟がいれば、お乳を飲む時も、渾身の力を出さなければ飲めない。

他の子たちに押しやられてしまうからだ。みな、必死だからだ。

離乳食を食べる時も、普通食に切り替わってからも、いつも渾身の力で食べていた。

そうして彼の体格は、だんだんと、みんなに追いついていった。

あんなに小さかった子が、とうとう、みんなに追いついていった。

大変だっただろう。彼の必死さが、痛いほどに伝わってきた。

彼は負けなかった。

その食が己の身体を大きくしてくれることを、

その食が己の力になってくれることを信じ、懸命に食べたのだ。

そして彼は、みんなと同じ大きさになった。みんなと同様に丈夫だし、元気満々だ。

證を見るたびに、子犬の頃の彼の頑張りが頭をよぎる。

実際、彼ら兄弟は「山犬」と呼びたいくらいに逞しい。

彼らの食に対する真剣さは、彼らのその頑丈さに直結しているようだ。

彼らほど凄くはないが、私も全身で食べている。

絶食モードの時には空腹に耐えるが、食がある時にはしっかりと食べている。

世間の食卓から見れば粗食なメニューだと思うが、身体はいつも丈夫だ。

全身で真剣に食べると、食は確実に力になるのだ。


森はもう、零下15度を超えた寒気に覆われている。

その外気の中で何時間も犬たちの世話と運動をする。仕事よりハードだ。

寒気は体力を奪う。体力が低下して身体が弱まると、多分カゼをひくだろう。

だから基礎身体力を高めておかなければならない。

日常の中の動作ひとつで、姿勢ひとつで、身体は変わっていく。

私はそれを実感してきた。だから人にも勧めてきた。

だが、人はなかなか実行に移さない。

信用していないのか、実行する気がないのか、面倒くさいのか、いずれにしても実行しない。

「無料」だと、やる気が起きないのだろうか?

お金を払う行為が無いと、真剣になれないのだろうか?

人は健康食品とか薬とか病院に対して結構な金額を使うようだが、

そこにお金を払わずとも、自分で自分の力を高めていけば良いのに、実行しない。

あるいはジムや教室にお金を払って通って、しかし家に帰れば途端に元の日常に戻ってしまう。

世間には次から次と、さまざまな健康法が紹介されているようだが、これではまるで「流行」だ。

いや、実際に流行現象なのだろう。世間は揺るぎの無い普遍性など求めていないのかも知れない。

だが、もし窮地に立った時、人は己の全力で対処しなくてはならない。

生きている以上、それはいつやって来てもおかしくはない。

野性たちはアクシデントや死が、いつも隣に座っていることを知っている。

自分が生と死の境界線上を生きていることを知っている。

だから彼らは、己の力の全てで生きる。

己に潜む感覚の全てを、力の全てを、己に潜むポテンシャルの全てを全開にして生きるのだ。


絶望的な心境になる日もある。

そんな時は一気に身体力が落ちている。要注意だ。

そんな時は、一時でもいい、全てを忘れて眠ることだ。

眠る気分になれないとしても、眠ったほうがいい。

心境を回復させないと、身体が不調に向かうことは目に見えている。

だから一時でいい、全てを忘れて眠るのだ。

動物たちも眠りの重要性を知っている。だから不調の時には、静かにじっと眠る。

それしか無いし、それが一番だ。薬などいらない。ただ眠ることだ。

同じ眠るなら、悩んで寝るより全てを忘れて寝たほうがいい。

それが回復の唯一の手段だと念じ、深く眠るのだ。


心が身体を導いている。いつも、どんなときも。

それを実感したとき、いろんなことが変わってくる。


※今日はとりとめの無い話になってしまいましたが、

多少なりともご参考になればとてもうれしいです。

※「野性禅」と相関しています。ご覧いただければ幸いです。

**** WOLFTEMPLE ****