<2008年1月13日>

以前、古新聞で、ある記事を目にした。

どこかの町で牛乳を盗んで捕まった老女の話だ。

老女は数匹の犬を飼っていた。

その犬たちに与えるエサが無くなり、やむなく少量の牛乳を飲ませていたらしい。

高齢なら、職も無かったのだろう。頼るあても無かったのだろう。

犬たちは、何かの事情で飼ったのだろう。

「ペット」で飼っていた訳では無かったと感じる。

保護して家族となった可能性もある。

家族の犬たちが空腹に耐える姿を眺めている訳にはいかない。

老女は、意を決したのだと思う。

もし自己優先の人ならば、犬たちを保健所に引き渡しただろう。

サッサと自分の守りに入っただろう。

それ以前に、苦労してまで犬を養ったりはしないだろう。

「自分も飲んでいたらしい」と嘲るように書かれていた。

そんなことまで書くというのか?

そのような状況の中で、彼女もろくに食べていなかったのは明らかではないか。

犬たちを抱えた孤独な老女が、犬たちと分け合って牛乳を飲んだのだ。

もし生活保護を受ける場合には、犬たちを手放さなければならない。

老女は、犬たちを見捨てることが出来なかったのだろう。

職も無く、頼るあても無く、生活保護も受けられず、犬たちを抱えて苦しんでいたのだ。

だがこの一件は、ゲーム感覚の万引きや遊ぶ金欲しさの窃盗と全く同列の「犯罪」として扱われた。

世間は、老女をただ「犯罪者」と見ただけなのだ。

彼女の行為の背景を無視して、「犯罪」のひと言で片付けたのだ。

平気で窃盗する人ならば、そういう自己中心の人ならば必死で犬を守ろうとはしないはずだ。

老女は良心の呵責に悩みながら、「命」を優先したのだ。

愛護団体ならば犬を守れば「美談」と讃えられ、寄付も集まる。

だが老女には、なんの手立ても無かったのだ。

おそらく犬たちは「処分」されただろう。

老女の無念が伝わる。胸が引き裂かれる思いだっただろう。

世間には、このような立場の人が一杯いるような気がする。

この自分に余力があるのなら何とか力になりたいが、

この自分も、彼らと同じくらいに断崖絶壁の上に立たされているのだ。

だがいつか、力になりたい。いつの日か必ず。


PS.「貧しくも美しい家族」を想うとき、忘れられない情景を思い出す。

30年くらい前、ある町の国道の端で、「リヤカー」を曳く犬がいた。

その誇りに満ちた姿が、忘れられない。

胸を張って堂々と、満面の笑顔でリヤカーを曳いていたのだ。

雑種の、中型の犬だった。確か「斑紋」の毛色で、耳の先だけ垂れていた。

飼主は、今で言う「ダンボール生活」の人だったと思う。

その飼主は「労働」として犬に曳かせていた訳ではなかったと直感した。

何故なら、犬があまりにも生き生きとしていたからだ。

おそらくその一家は、強い絆で結ばれていたのだろう。

車で走っていたから一瞬の時間だったが、私はその家族のことを祈った。

いろんな苦難があることが容易に想像できたからだ。

「どうか無事に暮らして欲しい」と、心から願った。

何故か、その犬のことを頻繁に思い出す。

それほどに、美しい姿だったのだ!!

**** WOLFTEMPLE ****