<2008年1月7日>

森に帰宅すると、何かの気配を感じた。

犬たちを見て回る。

犬たちの元に、犬とは異なる足跡がある。

雪上だから、一目で分かるのだ。

多分、カモシカの足跡だ。

足跡を辿ればどこから来たのかすぐに分かるが、

カモシカに余計な神経を使わせることになるので、そんなことはしない。

それが我々の仁義だ。

カモシカはここに来たかったから、ここに来た。

それだけで充分だ。

今までもすぐ近くにカモシカが立っていたことがあったし、足跡は去年もあった。

もちろん、食糧を求めて来るのではない。

ここにカモシカの食べる食糧は無いのだ。

だがカモシカは、犬たちの元に来る。遊びに来るのだ。

狼や狼犬やエスキモー犬がいる頃は、さすがに誰も遊びに来なかった。

熊でさえ、遊びに来なかった。

おそらく尋常な気配ではなかったのだろう。

猛者たちの強烈な野性の気配に対して、慎重に間合いを保っていたのだろう。

唯一、亡き次郎の元にキツネが遊びに来ていた。

その子は次郎を慕っていた。

何故かみんな、それを認めていた。みんなが、その子を見守っていた。

猛者たちが他界し、ここの気配は随分と変わっただろう。

それは良いとか悪いとかの話ではない。そういう問題ではない。

空気の違い、それだけだ。それだけの話だ。

熊も遊びに来るようになったが、それは以前のブログに綴った。

そしてカモシカが訪れる。鳥たちも集まって歌ってくれる。

動物たちは、生命存続のためだけに生きている訳ではない。

歌ったり、遊んだり、興味を抱いたり、一心に眺めたりする。

彼らは、感動の中で生きているのだ。

彼らは、感性の塊りなのだ。

カメラを構え、ビデオを構え、「記録」に専念しすぎると、

動物たちの真の姿を見失うことになる。それは単なる「傍観」だ。

傍観では、何も見えない。彼らの心の世界を知ることはできない。

時には目を閉じて、聴いてみるべきだ。声なき声を。

彼らの心の声が、きっと聴こえてくるはずだ。

カモシカと犬たちには、暗黙の了解がある。

黙していても、互いに分かるのだ。

森の気配の中に、彼らの会話が残っている。

私の胸に、今日も感動が迫る。

貧しくとも、我々は荘厳の世界にいる。

**** WOLFTEMPLE ****