<2008年1月6日>

昔、インドに、狼に育てられた二人の少女がいた。

「アマラとカマラ」だ。

有名な話だから、ご存知の方も多いと思う。

この話については、実にさまざまな論議がなされている。

だが、世界中の誰もが、重大な視座を忘れている。

「種を超えた愛」について、誰も語っていないのだ。

これは世にも稀な、種を超えた真実の愛の物語なのだ。

「人間は幼児期に教育を受けていないと獣同様になってしまう」とか、

「人間にとって、いかに教育が必要か、その典型である」とか、

世の教育者や道徳論者は実に偏向した固定観念で分析する。

彼らは、「不幸な少女」と断定する。

だが、少女の心境も知ろうとしないで、なぜ不幸と断定するのか?

人間は少女を狼と引き離し、「教育」を試みて失敗し、「不幸だった」と憐れんだ。

少女と狼の絆を、その愛の深さを、誰ひとり理解できなかったのだ。

野生獣は、自分が生き延びるだけでも精一杯だ。

彼らは、いつも生死の境界線上に立っているのだ。

異種の命を養うような余裕など微塵も無いのだ。

だが、狼は人間の少女を育てた。

狼から較べれば比較にならないほどに弱く華奢な人間の子供を細心の配慮で育て、守り抜いたのだ。

そこに細心の配慮が無ければ、人間の子供はすぐに死んでしまう。

そこに「愛」が無ければ、子供は絶望で死んでしまう。

そこに、愛に満ちた深い配慮があったからこそ、少女たちは生きていたのだ。

ジャングルには危険が満ちている。

狼からすれば、人間の子供など「足手まとい」になる。

思うように危険を回避できなくなるのだ。

それでも、それを承知で、最後の最後まで家族の誓いを守り通したのだ。

少女は、母狼に、狼兄弟たちに抱かれて眠った。この上なく暖かかった。

母狼は、いつも少女をやさしく舐めて愛を表現してくれた。

少女の身体を清潔に保ち、少女の身体に異常が無いかを確認してくれた。

少女は、狼兄弟たちと遊んだ。

狼兄弟たちは、力を加減して少女の相手をしてくれた。

さもなければ、少女はたちまち怪我をしてしまうからだ。

(※狼の本来の遊びは、途方も無くパワフルで荒っぽいのだ。)

少女たちは、さまざまなことを学んだ。

家族の約束、群れの約束、ジャングルの約束、大自然の約束、

そして偉大な愛を、学んだのだ。

それから較べれば、人間界の常識、人間界の価値観など、何の魅力も無かった。

純粋な愛の世界から較べれば、偏狭な固定観念の世界など、違和感に満ちていた。

そして少女たちは、狼たちへの祈りの中で死んだ。

愛する母狼と兄弟たちが殺された衝撃は、その途方も無い悲しみは、

一時たりとも少女の胸を去らなかったのである。

その衝撃を、その悲しみを、なぜ誰も分かってあげなかったのだ!!

愛しい母が、兄弟が、目の前で殺されたのだ。

少女のために、狼たちは逃げなかった。

大勢の武装した人間に囲まれて銃を向けられようとも、少女を見捨てなかった。

狼たちだけならば、囲まれる前に逃げることができた。

少女を見捨てなかったからこそ、狼たちは殺されたのだ。

血に染まった家族の姿を、少女は死ぬまで忘れなかっただろう。

人間の恐ろしさを、心に刻んだだろう。

一体何が「教育」だろうか?

真実の愛を知ること以上の「学び」などあるのだろうか?

愛の形はさまざまだ。決まった形など無いのだ。

人間は常識に囚われ、固定観念に囚われ、野獣の世界に愛も智慧も無いと信じ込んだ。

少女が学んだ莫大な宝を、人間は知ろうともせずに全否定したのだ。

世界には、この話と同様に、動物に育てられた人間の実話が多数ある。

それは、「無償の愛」そのものだ。

動物は一切の見返り無しで人間の子供を守り育てたのだ。

動物は、一旦家族と認めれば、その約束を裏切らない。

人間は動物を育て、殺して食う。共に暮らしながら、最後に食う。

その動物は、「なぜ? 一緒に暮らしていたのに、なぜ?」と、驚く。

信じていた者から突然、不思議で信じ難い最後通告を言い渡されるのだ。

動物は、悲しみの中で従う。

信じていた者が下した運命に従うことが、その動物の最後の愛の表現だったのだ。

その最後の愛の表現すらも、人間は眼中にしない。気にもかけない。

人間は「利用の下心」を持つ傾向性がある。

だから、純粋な愛の世界を見る視力が衰えている。

少女と狼の愛の世界が、人間には見えなかったのだ。

**** WOLFTEMPLE ****