<2008年1月5日>
「呼吸」は重要だ。
ここで言う呼吸とは「調息」だけを指している訳ではない。
息の呼吸だけでなく動作など、全てに於けるテンポやリズムや深度を指す。
そもそも「息」は、精神の状態によって著しく変わる。
だから調息に気をとられるのではなく、意識の持ち方に注意することが肝心だ。
意識の持ち方によって、おのずと肚での呼吸が出来るようになるのだ。
つまり精神の状態が、呼吸に直結しているのだ。
「気」も同様だ。
「気」は術ではない。
気の母体は「心」なのだ。
心が、気を生んでいるのだ。
だから「心気」と言ったほうが分かりやすい。
心は、それほどに基幹であり、全てを導く。
身体も心に導かれている。
身体も、ダイレクトに心の影響を受けているのだ。
身体はいつも頑張ろうとしている。
潜在力の全てを発揮して心に応えようとしている。
だが心が停滞していれば、身体も停滞する。つまり不調になる。
身体が機能を発揮したくても、心がそれを妨げてしまうのだ。
心が「今」を生きている時、身体は本領を発揮する。
身体は過保護を求めているのではない。本領を発揮したいのだ。
心と共に、一緒になって試練に立ち向かい、頑張って生き抜こうとしているのだ。
癒し、癒しと言うけれど、この世に苦難はごまんとある。
生きていられるだけでも相当にラッキーなのだ。
試練に立ち向かうとき、いよいよ自分の本領が発揮されるのだ。
自分でも気付かなかった自分の底力が発揮されるのだ。
そうやって次々と試練に挑みながら、心力・身体力が高まっていくのだ。
心力が高まれば、今までは苦労だと思っていたことが平気になる。
つまり「余裕」が生まれるのだ。余裕綽々になるのだ。
それこそ、本当の意味の「癒し」ではなかろうか?
アクシデントで肉体がダメージを受ける場合がある。
動物たちは、そのとき禅境に入る。
彼らは静かに横たわり、一切の雑念を排し、心と肉体を真に一体化させる。
そのとき肉体の回復力はMAXに高まる。
その状態を、何日でも続ける。
そうやって彼らは自分の力で自分を治す。
野性界に病院は無い。己の力だけが頼りなのだ。
だから彼らは真剣だ。本当に真剣なのだ。
長い年月の中で、私は彼らのその姿を見てきた。
彼らの真剣さ、彼らの回復の力の凄さをこの目で見てきた。
私はその姿に学んだ。心が身体を導くその姿に学んだ。
心は、気を生み、生命力を生んでいく。
心は、呼吸を導き、姿勢を導き、動作を導き、行動を導き、現象を造っていく。
だが、誰も心を見ることができない。自分の心も見ることができない。
心の実像を知るには、深く静かな時間を持つ以外には無い。
一日何分でもいい。そのひと時を持つことが必要だ。
日に一度でいい、心の波を鎮めるのだ。
心の波を鎮め、心と一緒になるのだ。
そうすると、心の状態が分かる。
我に返り、気が付くのだ。
心は「無限」だ。無限の世界なのだ。
だからこそ、己の心と対話しなければ、即座に迷路に彷徨うことになる。
※華厳経に「唯心偈」という詩がある。
この詩の義は「唯識思想」(全ては心が描いた虚妄な幻という解釈)とは異なる。
「一切従心転」という一行が示すように、
「心が全ての母体であり源である」「全ては心次第」と語っている。
この詩は、他の宗門にも大きな影響を与えた。
華厳のもうひとつのハイライトは「一即一切 一切即一」だ。
この詩も他に大きな影響を与えた。
この詩によって教義を大きく飛躍させた宗門もある。
(※詩の義の一端については以前のブログに書きました。)
この詩の核心に近い表現を、
古代ギリシャの「プロティノス」(205~270)が詩っている。
それぞれのものが一切のものを有し、
また一切のものであり、
一切のものと共に世界にあるのだが、
世界に於いてはいかなる個物も全体から隔絶していない。
全ての存在は相互に明瞭に知られる。
光は光を貫いて走る。
しかもおのおのは、自らの内に全てを含み、
同時に、相互の中に全てを見る。
したがって、
いたるところに全てがあり、
全てが全てであり、
それぞれが全てであり、
無限の栄光である。
そのおのおのが偉大であり、
その小さきものも偉大であり、
あそこにいる太陽は星辰の全てであり、
また、星辰のおのおのは星辰の全てであり、太陽でもある。
なんらかの存在様式がそのおのおのを支配しているが、
全ては、他のおのおのに映し出されているのである。
おそらくプロティノスは、哲学的思考ではなく、深い禅境の中で直観したのだと思う。
この詩は、その後の西洋哲学には見られない極めて異色で壮大な「Kegonworld」だ。
**** WOLFTEMPLE ****
「呼吸」は重要だ。
ここで言う呼吸とは「調息」だけを指している訳ではない。
息の呼吸だけでなく動作など、全てに於けるテンポやリズムや深度を指す。
そもそも「息」は、精神の状態によって著しく変わる。
だから調息に気をとられるのではなく、意識の持ち方に注意することが肝心だ。
意識の持ち方によって、おのずと肚での呼吸が出来るようになるのだ。
つまり精神の状態が、呼吸に直結しているのだ。
「気」も同様だ。
「気」は術ではない。
気の母体は「心」なのだ。
心が、気を生んでいるのだ。
だから「心気」と言ったほうが分かりやすい。
心は、それほどに基幹であり、全てを導く。
身体も心に導かれている。
身体も、ダイレクトに心の影響を受けているのだ。
身体はいつも頑張ろうとしている。
潜在力の全てを発揮して心に応えようとしている。
だが心が停滞していれば、身体も停滞する。つまり不調になる。
身体が機能を発揮したくても、心がそれを妨げてしまうのだ。
心が「今」を生きている時、身体は本領を発揮する。
身体は過保護を求めているのではない。本領を発揮したいのだ。
心と共に、一緒になって試練に立ち向かい、頑張って生き抜こうとしているのだ。
癒し、癒しと言うけれど、この世に苦難はごまんとある。
生きていられるだけでも相当にラッキーなのだ。
試練に立ち向かうとき、いよいよ自分の本領が発揮されるのだ。
自分でも気付かなかった自分の底力が発揮されるのだ。
そうやって次々と試練に挑みながら、心力・身体力が高まっていくのだ。
心力が高まれば、今までは苦労だと思っていたことが平気になる。
つまり「余裕」が生まれるのだ。余裕綽々になるのだ。
それこそ、本当の意味の「癒し」ではなかろうか?
アクシデントで肉体がダメージを受ける場合がある。
動物たちは、そのとき禅境に入る。
彼らは静かに横たわり、一切の雑念を排し、心と肉体を真に一体化させる。
そのとき肉体の回復力はMAXに高まる。
その状態を、何日でも続ける。
そうやって彼らは自分の力で自分を治す。
野性界に病院は無い。己の力だけが頼りなのだ。
だから彼らは真剣だ。本当に真剣なのだ。
長い年月の中で、私は彼らのその姿を見てきた。
彼らの真剣さ、彼らの回復の力の凄さをこの目で見てきた。
私はその姿に学んだ。心が身体を導くその姿に学んだ。
心は、気を生み、生命力を生んでいく。
心は、呼吸を導き、姿勢を導き、動作を導き、行動を導き、現象を造っていく。
だが、誰も心を見ることができない。自分の心も見ることができない。
心の実像を知るには、深く静かな時間を持つ以外には無い。
一日何分でもいい。そのひと時を持つことが必要だ。
日に一度でいい、心の波を鎮めるのだ。
心の波を鎮め、心と一緒になるのだ。
そうすると、心の状態が分かる。
我に返り、気が付くのだ。
心は「無限」だ。無限の世界なのだ。
だからこそ、己の心と対話しなければ、即座に迷路に彷徨うことになる。
※華厳経に「唯心偈」という詩がある。
この詩の義は「唯識思想」(全ては心が描いた虚妄な幻という解釈)とは異なる。
「一切従心転」という一行が示すように、
「心が全ての母体であり源である」「全ては心次第」と語っている。
この詩は、他の宗門にも大きな影響を与えた。
華厳のもうひとつのハイライトは「一即一切 一切即一」だ。
この詩も他に大きな影響を与えた。
この詩によって教義を大きく飛躍させた宗門もある。
(※詩の義の一端については以前のブログに書きました。)
この詩の核心に近い表現を、
古代ギリシャの「プロティノス」(205~270)が詩っている。
それぞれのものが一切のものを有し、
また一切のものであり、
一切のものと共に世界にあるのだが、
世界に於いてはいかなる個物も全体から隔絶していない。
全ての存在は相互に明瞭に知られる。
光は光を貫いて走る。
しかもおのおのは、自らの内に全てを含み、
同時に、相互の中に全てを見る。
したがって、
いたるところに全てがあり、
全てが全てであり、
それぞれが全てであり、
無限の栄光である。
そのおのおのが偉大であり、
その小さきものも偉大であり、
あそこにいる太陽は星辰の全てであり、
また、星辰のおのおのは星辰の全てであり、太陽でもある。
なんらかの存在様式がそのおのおのを支配しているが、
全ては、他のおのおのに映し出されているのである。
おそらくプロティノスは、哲学的思考ではなく、深い禅境の中で直観したのだと思う。
この詩は、その後の西洋哲学には見られない極めて異色で壮大な「Kegonworld」だ。
**** WOLFTEMPLE ****