
犬と暮らすとき、動物と暮らすときも、禅は不可欠だ。
異種の命と暮らすとき、対話の手段の異なる者同士が暮らすとき、禅境は不可欠の条件だ。
動物と暮らす人々は、それを軽視しすぎている。あるいは知らない。
無意識のうちに、人間の都合で動物を支配下に置いている。
「動物との対話」については以前のブログに書いたが、対話は「術」ではない。
どこまでも心の姿勢、心のあり方だ。
一切の固定観念を超えた、一切の偏見を捨てた心境のとき、異種との対話が成立するのだ。
それを可能にするには日常の習慣が必要になる。
野性禅の日常が、それを可能にするのだ。
また、動物たちの動きやスピードは、人間のレベルとは異なる。
彼らの挙動に対応するためには、自らの力を高めねばならない。
「動中静・静中動」の心得が求められるのである。
この言葉は古来より「武道」で使われてきたが、出典元は「華厳経」だ。
動きの中にあっても深静の核を失わず、静止の中にあっても瞬発の反応力を秘めている状態だ。
野性たちは、これを当然の基本として生活している。
これ無しには生きられないから、生まれながらに体得している。
いかなる状況の時にも肚に胆を据え、潜在力をMAXに引き出すのだ。
1%の可能性にも望みの全てを託し、己の最大限の力を発動させて乗り越えていくのだ。
野性界は、いつも生死の境界線上にある。
死は、いつも隣に座っている。死は、いつも身近な現実なのだ。
だからこそ、野性たちは全霊で生きている。己の能力を全開にして生きているのだ。
彼らの「絶妙な間合い」、彼らの「紙一重の交錯」は、神技レベルだ。
例えば動物番組で野生動物の攻防を映すが、それは神技同士の攻防なのだ。
その一瞬の中に、凄まじいスピードの攻防が隠されているのだ。
一流の武道家の動きも確かに凄いが、野性たちのレベルは次元が違う。
武道で言うところの奥義を、野性たちは日常で体現しているのだ。
野性たちは「体現者」なのである。
その前提には「動中静・静中動」がある。
それは容易な境地ではない。そこには「死生観」が緊密に関わっている。
「生き切り、死に切る」野性の死生観が、その根幹となり、それを支えているのである。
己の全てで生と対峙し、己の全てで死と対峙する死生観が、驚異の能力を生むのである。
動物と暮らすとき、彼らの奥底に眠る「野性の領域」を知らねばならない。
でなければ、本当の意味で彼らを理解することは出来ないのである。
※昔、ある格闘家が「牛殺し」と称して、まだ子供の温厚な飼牛を虐待して殺した。
闘うつもりなど微塵も無い、罪なき子牛を引っ張り出し、自らの力の誇示のために殺したのだ。
その牛には、全てが不明だった。最後まで何も分からずに死んでいった。
その人間が何故自分を攻撃するのかが、どうしても理解できなかった。
人間はそれに乗じて好き放題に攻撃した。
だが、幼いとはいえ、牛は簡単には死なない。
延々と殴られ続けた果てに、子牛は、どうしていいのか分からない心境のままに死んだ。
人間たちは子牛に、「死」よりも他に選択を許さなかった。
子牛はそれを覚った。
死は、慈悲の形で迎えに来た。
力自慢の格闘家が自らをアピールするために、動物を標的にすることがある。
全ての場合、まだ未成獣・未発達で体調不良の温厚な個体が選ばれる。
卑劣だ。虐待以外の何物でもない。そして野性に対する冒涜だ。
そこには、武道の求める深遠な精神は存在しない。
禅心の体得手段としての武道とは掛け離れている。
※今日はこの辺で失礼いたします。
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