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<2008年1月3日>

ここで言う禅とは、禅宗の禅を指している訳ではない。

私は「深静自在境」に入った状態を禅と呼んでいる。

時も場所も形も選ばない自由自在な禅境地を「野性禅」と呼んでいる。

本来、禅は野性禅だ。なにものにも囚われない境地だ。

なにものにも囚われず深奥を洞察し、己の潜在力をMAXに発揮していく状態だ。

ただ静かに瞑想する状態を禅だと勘違いしている人が多いが、

禅はもっともっとダイナミックだ。

潜在する力と智慧を呼び起こし、己の真の個性を発動させるのだ。

禅というと「無我」という言葉を思い浮かべる人も多い。

人は「無我」という言葉を虚無的に使いたがるが、

無我(無自性)に至るには「強烈な意志・確固たる自分」が不可欠だ。

「自分が無い」状態が無我ではない。

自分は在る。だがその自分は縁起によって生まれ、縁起の中で生き、

縁起の中で死に、縁起(無限の関係性)の中に刻まれる自分なのである。

要するに単独で自立している存在など、単独で自立できる存在など皆無なのだ。

全ての存在が同等の意義を持ち、同等に縁起世界に参加し、それでこの世は成立している。

それを考えれば、この世の全ての存在が平等の尊厳を有することが分かる。

つまり無我とは、「全ての存在の絶対平等の尊厳」を実感した状態を言うのだ。

「自分は無いのです。だから迷いも悩みも全ては虚妄な幻です。」という解説は誤りだ。

無我(無自性・空)は、縁起の世界の実像を知り、大いなる愛に目覚める境地なのである。

今回、なぜ禅の話をするかと言うと、禅は全てのシーンに隠されているからだ。

例えば「犬と接する時」にも、禅は本領を発揮するのである。


※今日はこの辺で失礼いたします。

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