
ここで言う禅とは、禅宗の禅を指している訳ではない。
私は「深静自在境」に入った状態を禅と呼んでいる。
時も場所も形も選ばない自由自在な禅境地を「野性禅」と呼んでいる。
本来、禅は野性禅だ。なにものにも囚われない境地だ。
なにものにも囚われず深奥を洞察し、己の潜在力をMAXに発揮していく状態だ。
ただ静かに瞑想する状態を禅だと勘違いしている人が多いが、
禅はもっともっとダイナミックだ。
潜在する力と智慧を呼び起こし、己の真の個性を発動させるのだ。
禅というと「無我」という言葉を思い浮かべる人も多い。
人は「無我」という言葉を虚無的に使いたがるが、
無我(無自性)に至るには「強烈な意志・確固たる自分」が不可欠だ。
「自分が無い」状態が無我ではない。
自分は在る。だがその自分は縁起によって生まれ、縁起の中で生き、
縁起の中で死に、縁起(無限の関係性)の中に刻まれる自分なのである。
要するに単独で自立している存在など、単独で自立できる存在など皆無なのだ。
全ての存在が同等の意義を持ち、同等に縁起世界に参加し、それでこの世は成立している。
それを考えれば、この世の全ての存在が平等の尊厳を有することが分かる。
つまり無我とは、「全ての存在の絶対平等の尊厳」を実感した状態を言うのだ。
「自分は無いのです。だから迷いも悩みも全ては虚妄な幻です。」という解説は誤りだ。
無我(無自性・空)は、縁起の世界の実像を知り、大いなる愛に目覚める境地なのである。
今回、なぜ禅の話をするかと言うと、禅は全てのシーンに隠されているからだ。
例えば「犬と接する時」にも、禅は本領を発揮するのである。
※今日はこの辺で失礼いたします。
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