<2007年12月23日>

「飢え」は、苦しい。

一日食べなくても腹が減る。

三日食べなければ力が湧いてこなくなる。

五日食べなければ、頭の中は食べ物のことしか浮かばなくなる。

これまで頻繁に絶食を経験してきたが、いつになっても、空腹は辛い。

身体と共に生きている限り、どう考えても、食べ物は不可欠なのだ。

飢えに苦しむ国がある。

かなりの地域が、飢えに苦しんでいる。

世の中はかなり豊かで贅沢な暮らしをしている様子なのに、格差が大きすぎる気がする。

例えば日本には「グルメ」と称する番組が溢れ、異常に工夫を凝らした贅沢な料理を競い、

「食のブランド」に人々が群がる。飢えとは掛け離れた世界だ。

しかし自分たちの実生活は「飽食」なのに、

その一方で「地球の飢餓を救おう!」などというスローガンを叫んでいる。

その思考は「支離滅裂」だ。一体何を訴えたいのか伝わってこない。

飢えとなれば、一個のお握りが、一個のパンが、宝物のように貴重な食べ物となる。

それを考えれば、贅を凝らした飽食など、何の価値も無い。

しかし世間はその幻に酔っている。

幻に酔いながらボランティアを語り、スローガンを叫んでいる。

世界の飢餓を生むのは、肉食生活と人口過多だ。

60億を超える人間が肉食生活をすれば、地球の破綻は明らかだ。

地球のキャパシティーをはるかに超えているのだ。

大自然には調和の維持のための摂理がある。

動物たちはその摂理に従って生きている。

飽食への願望、長寿への執着など、彼らは微塵も持っていないのだ。

人間はありとあらゆるものを食う。それでもまだ飽き足らずにいる。

そして寿命に抵抗し、あらゆる手段を使って延命を講じる。

しかも異常な増殖を続けてきた。

これでは地球はたまらない。どう考えても限界だ。

せめて「非肉食」にしなければ無理なのだ。

食べ物は他にいくらでもある。肉だけ食べないだけなのだ。

だからこれは特別な話ではないのだ。

非肉食と言うと驚く人が多いようだが、驚く話ではないのだ。

本来的には人間は肉食の身体ではないのだ。「歯」を見れば一目瞭然だ。

だから肉を食べなくても充分に生きていけるのだ。

いや、その方が本来的な健全な身体になるはずだ。

私は非肉食だが、極めて健康だ。

私の生活はかなりハードだと思うが、非肉食でも全く支障は無いのだ。

人間が非肉食になれば、世界の食糧事情はケタ違いに豊かになるそうだ。

それを示すデータもあり、もはや「公然の理」であるようだ。

(※データについては「ベジタリアン」のサイトに紹介されているはずです。)

「飢える人がいなくなる」、こんなに素晴らしいことはない。

飢えに苦しむ人は「一切れのパン」を夢見ている。

それから較べれば、肉を食わないことぐらい、なんてことないはずだ。

おいしいものは、ほかにも一杯あるのだ。沢山あるのだ。

「どうしても肉を食いたい!」という人がいる。

「肉を食いたい!」という欲求は、「肉を食う権利」の主張を生む。

だがその欲求は幻のようなものだ。身体が要求している本源的な欲求ではないのだ。

人間の中に定着してしまった思い込みの欲求なのだ。

「宮沢賢治」は非肉食者だった。ベジタリアンの短編も書いている。

彼のファンは多いと思うが、彼の真髄は「非肉食」に現われている。

ファンの方々は、そのことを知るべきだと思う。

「肉」には、途方もない悲しみが宿っている。

感覚を研ぎ澄ませば、それがハッキリと分かる。

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