<2007年12月22日>
闘犬の過酷さを知る人は少ないだろう。
「ただ犬が咬み合って血を流す」程度の印象を持つ人が多いようだ。
実際に闘犬をさせている人間も、
その闘いの本当の実像を知らないのではないだろうか。
もし、知っていながら闘犬させているとしたら、冷酷非情だ。
私はこれまで、職務のトレイニングを含めると、幾多の犬種と付き合った。
(「猛犬種」と呼ばれる犬種が多かった。「ピットブル」もいた。)
その非常に多数の犬たちと付き合う中では、不測の事態も起こる。
どれほど注意深く配慮しても、避けられないアクシデントが起こり得るのだ。
群れの場合には、一秒たりとも、気を抜く事は許されない。
リラックスの時でさえ、センサーを研ぎ澄ませていなければならない。
そういう対応をしていても、何かが起こる時があるのだ。
犬たちの動きは速い。電光のように錯綜する。
何かが引き金となって、一瞬に「流れ」が変わる。
「アッ!」と思った時にはもう遅い。
そうなれば、最善最速の対策を瞬時に実行するしかない。
そのような年月の中で、この25年間の中で、
私は多くの「犬の闘い」に遭遇し、そして闘いを分けてきた。
犬たちの闘いに、是否を問うことは出来ない。
その背景には、人間の憶測を超えた深い事情や摂理が隠されているのだ。
人間同士の「争い」とは意味が違うのである。
また「囲いの中」と外のフィールドとでは世界が違う。
犬たちの関係、行動表現など、「状況」が一変するのだ。
広いフィールドでは「自由な間合い」を取れるが、囲いの中ではそれが不可能に近く、
「不自然な間合い、不本意な間合い」となってしまうのだ。
動物たちにとっては、互いの「距離」が重大な意味を持つのだ。
距離は、意志をアピールする手段の一つなのだ。
「闘犬」が何故、狭い囲いの中で行なわれるかは、そのような理由からだ。
極めて「特殊な状況」に、犬を追い込むのだ。
闘いを避けたい犬も多いのだ。闘いを止めたい犬も多いのだ。
だが人間がそれを許さない。どこまでも延々と闘いを強制するのだ。
「闘い」には美学がある。
闘う前に、決着のつく場合も多いのだ。
あるいは一瞬で勝敗が決まる場合も多いのだ。
暗黙の了解で互いに勝敗を認める場合も多いのだ。
だが人間は、そんな美学など求めてはいない。
求めるものは、「血と死」だ。
人間は大昔から、そういう嗜好を持っていた。
人間は「闘いの見物」が大好きなのだ。
ローマの「コロシアム」(円形闘技場)がその代表格だが、
大昔から今に至るまで全世界で、人々は「動物の闘い」の見物に熱狂してきたのだ。
もちろん、どちらかが死ぬのを見届けなければ人々は気が済まなかったのだ。
「異常な趣味」と言わざるを得ない。
何故そんな趣味を秘めているのかが不思議だ。
あらゆる動物を集め、無理やり闘わせた。
定番の動物は牛や熊や犬だった。
それは闘いではなく、まごうことなき「虐待」だった。
「死に至る虐待」、それ以外の何物でもなかった。
「闘犬」に於ける肉体の負荷は、想像を絶している。
人間には耐える事のできない極限の負荷だ。
人間ならば、3分と持たないだろう。
肉体だけでなく、精神が持たないだろう。
犬は闘いの時、全身を「鋼」のように堅く引き締めていなければならない。
そうでなければ、たちまちの内に皮膚と筋肉が裂けてしまうのだ。
だから彼らは渾身の力で、「全身」を堅く引き締めている。
その状態が、延々と続くのだ。果てしなく続くのだ。
(※試しに、あなたも頭から足先までの全身に、渾身の力を入れてみてください。
何十秒と持たないことが分かると思います。)
そして彼らは常に、一瞬も気を抜かずに、足を踏ん張っている。
倒されれば、一気に致命的に不利となるからだ。
死に物狂いで踏ん張っているのだ。
後肢の骨が、悲鳴を上げている。
そこには甚大な圧力がかかっているのだ。
心臓は、もはや限界を超えている。
延々と全力疾走を続けているのだから、心臓が悲鳴を上げている。
そのような状態の中で、彼らは闘っている。いや、闘わせられている。
心臓がパンクして死ぬ犬も多い。
もちろん、心臓が弱いと言う意味ではない。
彼らの心臓は極めてタフだが、限界を超えた負荷が続けば、パンクするのは当然だ。
人間であれば、その前に「精神」がギブアップする。精神が耐え切れないのだ。
犬の精神力は、それほどに凄いのだ。
「闘いのダメージ」は、人々の想像よりも、はるかに大きい。
外見のケガよりも、内部の損傷が大きい場合が多いのだ。
内部深くの筋肉と腱が、大きなダメージを受けているのだ。
人間だったら、間違いなく「入院」の状態だ。
だが犬たちは、その痛みに耐えている。ひたすら耐えている。
「飼主」は、それを知っているのか?
闘いを強制する飼主に、その精神力があるのか?
無論、耐えられるはずが無い。一瞬でギブアップだ。
人間は、自分が耐えられないことを、他者に強制する。
そういう傾向を持った生き物なのだ。
※外国の「闘犬試合」は凄惨の極みです。徹底的に冷酷な手段で闘わせます。
「闘犬」自体に限らず、「闘犬種」を作り出す過程も、無惨の極みです。
犬たちは、「命」として扱われることは無いのです。
**** WOLFTEMPLE ****
闘犬の過酷さを知る人は少ないだろう。
「ただ犬が咬み合って血を流す」程度の印象を持つ人が多いようだ。
実際に闘犬をさせている人間も、
その闘いの本当の実像を知らないのではないだろうか。
もし、知っていながら闘犬させているとしたら、冷酷非情だ。
私はこれまで、職務のトレイニングを含めると、幾多の犬種と付き合った。
(「猛犬種」と呼ばれる犬種が多かった。「ピットブル」もいた。)
その非常に多数の犬たちと付き合う中では、不測の事態も起こる。
どれほど注意深く配慮しても、避けられないアクシデントが起こり得るのだ。
群れの場合には、一秒たりとも、気を抜く事は許されない。
リラックスの時でさえ、センサーを研ぎ澄ませていなければならない。
そういう対応をしていても、何かが起こる時があるのだ。
犬たちの動きは速い。電光のように錯綜する。
何かが引き金となって、一瞬に「流れ」が変わる。
「アッ!」と思った時にはもう遅い。
そうなれば、最善最速の対策を瞬時に実行するしかない。
そのような年月の中で、この25年間の中で、
私は多くの「犬の闘い」に遭遇し、そして闘いを分けてきた。
犬たちの闘いに、是否を問うことは出来ない。
その背景には、人間の憶測を超えた深い事情や摂理が隠されているのだ。
人間同士の「争い」とは意味が違うのである。
また「囲いの中」と外のフィールドとでは世界が違う。
犬たちの関係、行動表現など、「状況」が一変するのだ。
広いフィールドでは「自由な間合い」を取れるが、囲いの中ではそれが不可能に近く、
「不自然な間合い、不本意な間合い」となってしまうのだ。
動物たちにとっては、互いの「距離」が重大な意味を持つのだ。
距離は、意志をアピールする手段の一つなのだ。
「闘犬」が何故、狭い囲いの中で行なわれるかは、そのような理由からだ。
極めて「特殊な状況」に、犬を追い込むのだ。
闘いを避けたい犬も多いのだ。闘いを止めたい犬も多いのだ。
だが人間がそれを許さない。どこまでも延々と闘いを強制するのだ。
「闘い」には美学がある。
闘う前に、決着のつく場合も多いのだ。
あるいは一瞬で勝敗が決まる場合も多いのだ。
暗黙の了解で互いに勝敗を認める場合も多いのだ。
だが人間は、そんな美学など求めてはいない。
求めるものは、「血と死」だ。
人間は大昔から、そういう嗜好を持っていた。
人間は「闘いの見物」が大好きなのだ。
ローマの「コロシアム」(円形闘技場)がその代表格だが、
大昔から今に至るまで全世界で、人々は「動物の闘い」の見物に熱狂してきたのだ。
もちろん、どちらかが死ぬのを見届けなければ人々は気が済まなかったのだ。
「異常な趣味」と言わざるを得ない。
何故そんな趣味を秘めているのかが不思議だ。
あらゆる動物を集め、無理やり闘わせた。
定番の動物は牛や熊や犬だった。
それは闘いではなく、まごうことなき「虐待」だった。
「死に至る虐待」、それ以外の何物でもなかった。
「闘犬」に於ける肉体の負荷は、想像を絶している。
人間には耐える事のできない極限の負荷だ。
人間ならば、3分と持たないだろう。
肉体だけでなく、精神が持たないだろう。
犬は闘いの時、全身を「鋼」のように堅く引き締めていなければならない。
そうでなければ、たちまちの内に皮膚と筋肉が裂けてしまうのだ。
だから彼らは渾身の力で、「全身」を堅く引き締めている。
その状態が、延々と続くのだ。果てしなく続くのだ。
(※試しに、あなたも頭から足先までの全身に、渾身の力を入れてみてください。
何十秒と持たないことが分かると思います。)
そして彼らは常に、一瞬も気を抜かずに、足を踏ん張っている。
倒されれば、一気に致命的に不利となるからだ。
死に物狂いで踏ん張っているのだ。
後肢の骨が、悲鳴を上げている。
そこには甚大な圧力がかかっているのだ。
心臓は、もはや限界を超えている。
延々と全力疾走を続けているのだから、心臓が悲鳴を上げている。
そのような状態の中で、彼らは闘っている。いや、闘わせられている。
心臓がパンクして死ぬ犬も多い。
もちろん、心臓が弱いと言う意味ではない。
彼らの心臓は極めてタフだが、限界を超えた負荷が続けば、パンクするのは当然だ。
人間であれば、その前に「精神」がギブアップする。精神が耐え切れないのだ。
犬の精神力は、それほどに凄いのだ。
「闘いのダメージ」は、人々の想像よりも、はるかに大きい。
外見のケガよりも、内部の損傷が大きい場合が多いのだ。
内部深くの筋肉と腱が、大きなダメージを受けているのだ。
人間だったら、間違いなく「入院」の状態だ。
だが犬たちは、その痛みに耐えている。ひたすら耐えている。
「飼主」は、それを知っているのか?
闘いを強制する飼主に、その精神力があるのか?
無論、耐えられるはずが無い。一瞬でギブアップだ。
人間は、自分が耐えられないことを、他者に強制する。
そういう傾向を持った生き物なのだ。
※外国の「闘犬試合」は凄惨の極みです。徹底的に冷酷な手段で闘わせます。
「闘犬」自体に限らず、「闘犬種」を作り出す過程も、無惨の極みです。
犬たちは、「命」として扱われることは無いのです。
**** WOLFTEMPLE ****