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<2007年12月21日>

私が土方に行っている建設会社に、シェパードと子豚が飼われている。

社長が飼っているのだが、とても可愛い。

シェパード(メス)と子豚(正確には若いミニ豚種)は仲が良い。

彼らを連れて敷地内を散歩する。子豚も一緒に散歩するのだ。

もちろんシェパードも可愛いが、子豚も同様に可愛い。

子豚はとても繊細で、遠慮深く、静かで素直な子だ。

シェパードの方が年長だし身体もずっと大きいので、子豚はシェパードに遠慮がちに行動する。

怯えている訳ではなく、群れの規律、群れの礼儀を心得ている様子だ。

子豚は思慮深く、深い観察力を持っているのだ。

私の出勤時にはシェパードが大喜びするが、子豚も出迎えてくれる。

帰る時には、シェパードが悲しげに泣くが、子豚も寂しげに見送ってくれる。

子豚は、表現は控えめだが、犬と全く同様の感受性を持っている。

犬と全く同様に、「心の世界」に住んでいるのだ。

私は「エサ」で子豚の関心を惹いているのではない。

子豚は、エサ目当てで私と散歩する訳ではないのだ。

昔、馬たちやロバやヒツジやヤギの世話をしてきた。子牛とも遊んだ。

彼らはみんな、純真な感性に満ち満ちていた。

彼らは、犬と同じように、遊んだ。

おどけたり、ふざけたり、甘えたりした。

種は異なれど、その純真に、何の違いも無かった。

動物たちは、飼われる環境によって、その行動表現が変わる。

劣悪な飼育下では、彼らは生き延びるだけで精一杯となり、

繊細な感性を現わす余裕が無くなってしまう。

いや、感情の表現さえも許されないのだ。

その過酷極まる飼育下でも、彼らは命の使命の声に従い、絶望と闘いながら懸命に生きるのだ。

その必死の姿が、人間には分からない。「畜生」と呼ぶだけだ。

劣悪環境の薄暗い「工場」で処刑の直前まで耐える動物たち。

一生を犠牲にして、どれほど人間に献身しても、返ってくる言葉は「畜生」だ。

ある日、インターネットで、どこかの国での信じ難い動物処刑を知った。

その日から、そのことが頭から離れない。

子豚が、言語を絶する方法で、生贄処刑にされたのだ。

処刑を実行した人々は、楽しそうに歓声をあげていたように感じる。

見物の群集も同様の様子に見えた。

彼らは、憎しみの標的の代わりの生贄として、その子豚を選んだ。

おそらく、処刑の前に「拷問」が行なわれただろう。

標的の身代わりにされた子豚は、徹底的に虐待されただろう。

何の罪も無い、まだ幼い子豚が、

誰を恨む事も、誰を憎む事も、誰をうらやむ事もせず、

ただ純真に生きていた一頭の子豚が、

足に綱をかけられ、生きたまま、身体を引き裂かれたのだ。

前後の足を両方から引っ張り合い、徐々に、胴体を裂いていく。

その子豚は、渾身の力で耐えていただろう。

狂わんばかりの地獄の痛みの中で、限界をはるかに超えた力で耐えていただろう。

私はその写真のひとコマを見ただけで、それを感じた。

感じたというよりも、その感覚が入ってきた。

そして子豚の悲鳴が、この胸に響き渡ったのだ。

生きたまま、人々の喚声の中で、胴体を引きちぎられたのだ。

いかに生贄といえ、これほどの地獄があるだろうか。

世間が許したとしても、人間界の法律が許したとしても、

この理不尽の極み、この不条理の極みは、大悲法界が認めないだろう。

この世の誰が、その痛みに耐えられると言うのだ。

人間の誰が、その地獄に耐えられると言うのだ。

処刑を実行した中の一体誰が耐えられると言うのだ。

自分が耐えられない痛みを他者に与えて楽しいと言うのか?

「畜生」だから何をしようと人間の自由だと言うのか?

人間にはその権利があると言うのか?

子豚の哀願の叫びを聞いた時、子豚の断末魔の悲鳴を聞いた時、

その場の人間たちの心に、ひとかけらの慈悲心も起きなかったのか?

子豚は哀願したはずだ。何度も何度も許しを願ったはずだ。

人間は、その声を聞きながらも、容赦しない。

動物に対して、人間は決して許さないのだ。

人間は怖ろしい。比類なき凶暴な生き物だ。


私は毎日、その子豚に祈りを捧げている。

子豚が、夢に現われる。

南無華厳大悲界 摩訶華厳大悲力 一心誓願狼山院

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