
私が土方に行っている建設会社に、シェパードと子豚が飼われている。
社長が飼っているのだが、とても可愛い。
シェパード(メス)と子豚(正確には若いミニ豚種)は仲が良い。
彼らを連れて敷地内を散歩する。子豚も一緒に散歩するのだ。
もちろんシェパードも可愛いが、子豚も同様に可愛い。
子豚はとても繊細で、遠慮深く、静かで素直な子だ。
シェパードの方が年長だし身体もずっと大きいので、子豚はシェパードに遠慮がちに行動する。
怯えている訳ではなく、群れの規律、群れの礼儀を心得ている様子だ。
子豚は思慮深く、深い観察力を持っているのだ。
私の出勤時にはシェパードが大喜びするが、子豚も出迎えてくれる。
帰る時には、シェパードが悲しげに泣くが、子豚も寂しげに見送ってくれる。
子豚は、表現は控えめだが、犬と全く同様の感受性を持っている。
犬と全く同様に、「心の世界」に住んでいるのだ。
私は「エサ」で子豚の関心を惹いているのではない。
子豚は、エサ目当てで私と散歩する訳ではないのだ。
昔、馬たちやロバやヒツジやヤギの世話をしてきた。子牛とも遊んだ。
彼らはみんな、純真な感性に満ち満ちていた。
彼らは、犬と同じように、遊んだ。
おどけたり、ふざけたり、甘えたりした。
種は異なれど、その純真に、何の違いも無かった。
動物たちは、飼われる環境によって、その行動表現が変わる。
劣悪な飼育下では、彼らは生き延びるだけで精一杯となり、
繊細な感性を現わす余裕が無くなってしまう。
いや、感情の表現さえも許されないのだ。
その過酷極まる飼育下でも、彼らは命の使命の声に従い、絶望と闘いながら懸命に生きるのだ。
その必死の姿が、人間には分からない。「畜生」と呼ぶだけだ。
劣悪環境の薄暗い「工場」で処刑の直前まで耐える動物たち。
一生を犠牲にして、どれほど人間に献身しても、返ってくる言葉は「畜生」だ。
ある日、インターネットで、どこかの国での信じ難い動物処刑を知った。
その日から、そのことが頭から離れない。
子豚が、言語を絶する方法で、生贄処刑にされたのだ。
処刑を実行した人々は、楽しそうに歓声をあげていたように感じる。
見物の群集も同様の様子に見えた。
彼らは、憎しみの標的の代わりの生贄として、その子豚を選んだ。
おそらく、処刑の前に「拷問」が行なわれただろう。
標的の身代わりにされた子豚は、徹底的に虐待されただろう。
何の罪も無い、まだ幼い子豚が、
誰を恨む事も、誰を憎む事も、誰をうらやむ事もせず、
ただ純真に生きていた一頭の子豚が、
足に綱をかけられ、生きたまま、身体を引き裂かれたのだ。
前後の足を両方から引っ張り合い、徐々に、胴体を裂いていく。
その子豚は、渾身の力で耐えていただろう。
狂わんばかりの地獄の痛みの中で、限界をはるかに超えた力で耐えていただろう。
私はその写真のひとコマを見ただけで、それを感じた。
感じたというよりも、その感覚が入ってきた。
そして子豚の悲鳴が、この胸に響き渡ったのだ。
生きたまま、人々の喚声の中で、胴体を引きちぎられたのだ。
いかに生贄といえ、これほどの地獄があるだろうか。
世間が許したとしても、人間界の法律が許したとしても、
この理不尽の極み、この不条理の極みは、大悲法界が認めないだろう。
この世の誰が、その痛みに耐えられると言うのだ。
人間の誰が、その地獄に耐えられると言うのだ。
処刑を実行した中の一体誰が耐えられると言うのだ。
自分が耐えられない痛みを他者に与えて楽しいと言うのか?
「畜生」だから何をしようと人間の自由だと言うのか?
人間にはその権利があると言うのか?
子豚の哀願の叫びを聞いた時、子豚の断末魔の悲鳴を聞いた時、
その場の人間たちの心に、ひとかけらの慈悲心も起きなかったのか?
子豚は哀願したはずだ。何度も何度も許しを願ったはずだ。
人間は、その声を聞きながらも、容赦しない。
動物に対して、人間は決して許さないのだ。
人間は怖ろしい。比類なき凶暴な生き物だ。
私は毎日、その子豚に祈りを捧げている。
子豚が、夢に現われる。
南無華厳大悲界 摩訶華厳大悲力 一心誓願狼山院
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