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<2007年12月13日>

1990年、私は天使に出会った。

その子との出会いが、私の人生を決定した。

その子の名を「楓(かえで)」と言う。

17年前のある日、用事で富士山の自動車専用道路を走っていた。

左隅の視界に、何かが映った。

私は瞬間に、残像を思い返した。

何か小さな生き物が歩いていたような気がする。

「ヒョコン、ヒョコン」という妙なリズムで歩いていたような気がする。

既に200m以上は走り過ぎていたが、その日は道が空いていたので、バックして戻った。

小犬だった。日本犬の血が混じったMIX犬だった。まだ子供の様子だ。

私は驚かせないように、静かにゆっくりと近づいた。

次の瞬間、私は言葉を失った。

何かとてつもなく大きな悲しみが、私の胸を貫いた。

その衝撃は、17年経った今でも忘れない。

一時たりとも、忘れることが出来ない。

その子の身体は、各部が折れて曲がっていた。

アゴが、両前足が、折れたままにくっついて、曲がっていた。

あまりの悲しみで、全身が震えた。

その子は、私を見上げていた。

キラキラしたつぶらな瞳で微笑んでいた。

これほどの状態にありながら、私を見上げて微笑んでいたのだ。

私は静かにかがみ、その子を抱き、車に乗せた。

助手席でも、その子はずっと私を見つめていた。

私は涙が止まらなかった。

その子の苦しみ、その子の痛み、その子の不安と孤独を想うと、胸が張り裂けそうだった。

家に戻り、その子を部屋に入れた。

布団の上に静かにチョコンと座っていた。

とりあえず、フードの缶詰をあげた。

その子はとてもうれしそうに、小刻みにシッポを振りながら、勢いよく食べた。

顔の辺りの毛がわずかにカールしているので、テリア系の血も入っているようだ。

耳の先が少し折れ、尾は差し巻き尾で、毛色はブラックタンだった。

歯を見てみると、まだ「乳歯」だった。おそらく生後4ヶ月ぐらいだろう。

女の子だった。生後わずか4ヶ月の女の子なのだ。

その子犬が、これほど過酷な目に遭って、それでも私に微笑んでくれたのだ。

誰を恨みもせず、運命を呪いもせず、明るく微笑んでいたのだ。

私は胸の中で手を合わせた。

言いようの無い「リスペクト」の気持ちが、心の底から湧きあがってきた。

一体どうやって生きてきたと言うのだ。

両方の前足が折れた状態で、どうやって歩いたと言うのだ。肘で這って歩いたのか?

アゴが折れた状態で、どうやって食べたと言うのだ。必死に飲み込んできたのか?

いや、食べる物もろくに無かったはずだ。一番の成長期に、食べる物が無かったのだ。

間断なく襲う地獄の激痛の中で、飢えの中で、孤独の中で、

その想像を超えた苦しみの中で、その子は、生きてきたのだ!!

「お前に出来るか?お前に耐えられるか?お前は生きる望みを失わずにいられるか?」

私の耳に、問う声が聴こえる。

私には耐えられない。私はその痛みに耐えられない。私はその絶望に耐えられない。

いや、どんな偉そうなことを語る人でも、どんな自信家でも、耐えられないだろう。

人間は指一本ケガしただけで病院に駆け込むのだ。

痛み止めを打ってもらい、鎮痛剤を飲み、看護を受けるのだ。

「痛み」とは、理屈を超えて、耐え難いものなのだ。

私はそれまで、狼のスピリットに、エスキモー犬のスピリットに、感動し、憧れた。

狼の太郎とエスキモー犬のライと共に生きることが私の人生だった。

だが、その子の姿を見て、人生が変わった。

どんな命も凄いことを、どんな命にも無限に輝くスピリットが宿っていることを、

どんな命も全身全霊で生きていることを、心の底から、身を切られるほどに痛切に感じたのだ。

その子の孤独は、誰も想像できないだろう。

この世で誰ひとり、その子の味方はいなかったのだ。

生後4ヶ月の、重傷を負った子犬は、たったひとりで耐えてきたのだ。

私はその子を「楓(かえで)」と名付けた。

終生の家族を誓った。

どんなことがあっても家族でいることを、約束した。

楓が受けた苦しみを、楓が受けた心の傷を、せめて、癒していければと、願った。

布団の中で、楓と一緒に寝た。

楓はいつまでも私を見つめていた。

子犬の匂いが、つぶらな瞳が、とてもとても可愛かった。

「楓はお父さんの子供だよ!ずっと一緒だよ!」

私は何度も楓に声をかけた。

楓はそのたびに、うれしそうに笑った。

楓は、天に戻った。

その話は、今はできない。

それを話す気力が、今は湧いてこないのだ。

楓と暮らせた期間は極めて短かった。

だが、それは永遠の日々だった。

その一瞬一瞬が、永遠だったのだ。

楓の亡骸を、静かで美しい森に埋葬した。

楓を抱き締めながら、空を見上げて、泣いた。

半日以上も、そうやって抱いていた。

埋葬を終え、花を植えた。

場所を確認し、その日は家に戻った。

翌日、その森に行き、埋葬の場所を探した。

だが、いくら探しても、何時間探しても、その場所が見つからなかった。

花も見当たらなかった。

昨日の道を辿っても、花の影さえ見つからなかったのだ。

私は何故か強く確信した。

楓は、花と共に天に帰ったのだ。

その夜、楓が夢に現われた。

光がキラキラ輝くブルーの海のような中で、楓が微笑んでいた。

不思議なことに、あの悲しみの身体が、折れて曲がったアゴと足が、本来の姿になっていた。

そして、確かに聴こえた。

「お父さん!!」と。

それが夢であったのか、分からない。

あまりにもはっきりと憶えているのだ。

私はその後、犬たちを保護する人生になった。

家族が増えていった。

いつも限界を超えた生活になった。

いつも崖っぷちに追い詰められた人生になった。

だが私はひとかけらも後悔してはいない。

楓が、命の無限の尊厳を、教えてくれたのだ。

楓が、真の勇気を教えてくれたのだ。

苦しい時、辛い時、楓のことを思い出す。

楓の忍耐、楓の勇気を想えば、困難も困難でなくなる。

私の心の中には、いつも楓がいる。

**** WOLFTEMPLE ****