
1990年、私は天使に出会った。
その子との出会いが、私の人生を決定した。
その子の名を「楓(かえで)」と言う。
17年前のある日、用事で富士山の自動車専用道路を走っていた。
左隅の視界に、何かが映った。
私は瞬間に、残像を思い返した。
何か小さな生き物が歩いていたような気がする。
「ヒョコン、ヒョコン」という妙なリズムで歩いていたような気がする。
既に200m以上は走り過ぎていたが、その日は道が空いていたので、バックして戻った。
小犬だった。日本犬の血が混じったMIX犬だった。まだ子供の様子だ。
私は驚かせないように、静かにゆっくりと近づいた。
次の瞬間、私は言葉を失った。
何かとてつもなく大きな悲しみが、私の胸を貫いた。
その衝撃は、17年経った今でも忘れない。
一時たりとも、忘れることが出来ない。
その子の身体は、各部が折れて曲がっていた。
アゴが、両前足が、折れたままにくっついて、曲がっていた。
あまりの悲しみで、全身が震えた。
その子は、私を見上げていた。
キラキラしたつぶらな瞳で微笑んでいた。
これほどの状態にありながら、私を見上げて微笑んでいたのだ。
私は静かにかがみ、その子を抱き、車に乗せた。
助手席でも、その子はずっと私を見つめていた。
私は涙が止まらなかった。
その子の苦しみ、その子の痛み、その子の不安と孤独を想うと、胸が張り裂けそうだった。
家に戻り、その子を部屋に入れた。
布団の上に静かにチョコンと座っていた。
とりあえず、フードの缶詰をあげた。
その子はとてもうれしそうに、小刻みにシッポを振りながら、勢いよく食べた。
顔の辺りの毛がわずかにカールしているので、テリア系の血も入っているようだ。
耳の先が少し折れ、尾は差し巻き尾で、毛色はブラックタンだった。
歯を見てみると、まだ「乳歯」だった。おそらく生後4ヶ月ぐらいだろう。
女の子だった。生後わずか4ヶ月の女の子なのだ。
その子犬が、これほど過酷な目に遭って、それでも私に微笑んでくれたのだ。
誰を恨みもせず、運命を呪いもせず、明るく微笑んでいたのだ。
私は胸の中で手を合わせた。
言いようの無い「リスペクト」の気持ちが、心の底から湧きあがってきた。
一体どうやって生きてきたと言うのだ。
両方の前足が折れた状態で、どうやって歩いたと言うのだ。肘で這って歩いたのか?
アゴが折れた状態で、どうやって食べたと言うのだ。必死に飲み込んできたのか?
いや、食べる物もろくに無かったはずだ。一番の成長期に、食べる物が無かったのだ。
間断なく襲う地獄の激痛の中で、飢えの中で、孤独の中で、
その想像を超えた苦しみの中で、その子は、生きてきたのだ!!
「お前に出来るか?お前に耐えられるか?お前は生きる望みを失わずにいられるか?」
私の耳に、問う声が聴こえる。
私には耐えられない。私はその痛みに耐えられない。私はその絶望に耐えられない。
いや、どんな偉そうなことを語る人でも、どんな自信家でも、耐えられないだろう。
人間は指一本ケガしただけで病院に駆け込むのだ。
痛み止めを打ってもらい、鎮痛剤を飲み、看護を受けるのだ。
「痛み」とは、理屈を超えて、耐え難いものなのだ。
私はそれまで、狼のスピリットに、エスキモー犬のスピリットに、感動し、憧れた。
狼の太郎とエスキモー犬のライと共に生きることが私の人生だった。
だが、その子の姿を見て、人生が変わった。
どんな命も凄いことを、どんな命にも無限に輝くスピリットが宿っていることを、
どんな命も全身全霊で生きていることを、心の底から、身を切られるほどに痛切に感じたのだ。
その子の孤独は、誰も想像できないだろう。
この世で誰ひとり、その子の味方はいなかったのだ。
生後4ヶ月の、重傷を負った子犬は、たったひとりで耐えてきたのだ。
私はその子を「楓(かえで)」と名付けた。
終生の家族を誓った。
どんなことがあっても家族でいることを、約束した。
楓が受けた苦しみを、楓が受けた心の傷を、せめて、癒していければと、願った。
布団の中で、楓と一緒に寝た。
楓はいつまでも私を見つめていた。
子犬の匂いが、つぶらな瞳が、とてもとても可愛かった。
「楓はお父さんの子供だよ!ずっと一緒だよ!」
私は何度も楓に声をかけた。
楓はそのたびに、うれしそうに笑った。
楓は、天に戻った。
その話は、今はできない。
それを話す気力が、今は湧いてこないのだ。
楓と暮らせた期間は極めて短かった。
だが、それは永遠の日々だった。
その一瞬一瞬が、永遠だったのだ。
楓の亡骸を、静かで美しい森に埋葬した。
楓を抱き締めながら、空を見上げて、泣いた。
半日以上も、そうやって抱いていた。
埋葬を終え、花を植えた。
場所を確認し、その日は家に戻った。
翌日、その森に行き、埋葬の場所を探した。
だが、いくら探しても、何時間探しても、その場所が見つからなかった。
花も見当たらなかった。
昨日の道を辿っても、花の影さえ見つからなかったのだ。
私は何故か強く確信した。
楓は、花と共に天に帰ったのだ。
その夜、楓が夢に現われた。
光がキラキラ輝くブルーの海のような中で、楓が微笑んでいた。
不思議なことに、あの悲しみの身体が、折れて曲がったアゴと足が、本来の姿になっていた。
そして、確かに聴こえた。
「お父さん!!」と。
それが夢であったのか、分からない。
あまりにもはっきりと憶えているのだ。
私はその後、犬たちを保護する人生になった。
家族が増えていった。
いつも限界を超えた生活になった。
いつも崖っぷちに追い詰められた人生になった。
だが私はひとかけらも後悔してはいない。
楓が、命の無限の尊厳を、教えてくれたのだ。
楓が、真の勇気を教えてくれたのだ。
苦しい時、辛い時、楓のことを思い出す。
楓の忍耐、楓の勇気を想えば、困難も困難でなくなる。
私の心の中には、いつも楓がいる。
**** WOLFTEMPLE ****