<2007年11月29日>

この人間界で「動物の尊厳」を問うことは至難です。

「動物に尊厳を認める」という歴史が無かったからです。

動物に対する人類の虐待・拷問の実態は、言語を絶しています。

「何故ここまで残酷になれるのか?」と不思議になります。

「殺す殺さない」の話ではありません。それ以前の話です。

「動物愛護」という言葉に対しても未だに偏見が多いようです。

愛護を、あたかも「偏向思想」のように見る人も多いようです。

動物愛護のスタイルは様々ですから、批判の対象になるケースもあります。

しかし「かわいそう!なんとかしてあげたい!」という原点の気持ちさえも否定して、

ただただ批難の標的にする行為は「いじめ」です。

独力で保護活動すれば多くの場合「破滅」が訪れます。

「なんとかしたい!」と思っても、力尽きていくのです。

その人の精神はボロボロに疲れ切り、心は泣き叫んでいるでしょう。

ペットを捨てる冷酷非情な飼主がいなければ、その愛護家も破滅の人生を送らずに済んだはずです。

しかし現実にそこに捨て犬がいたのです。見て見ぬ振りが出来なかったのです。

「無理だと分かっているのに何故保護するの?逆に無責任でしょ!」と言う人も多いようです。

しかしその人は「実態」を知らない人です。

あるいはその実態を知ってさえ、平気でいられる人かも知れません。

「平気でいられる人」は、どこまでいっても平気なのです。

だから話が噛み合うはずが無いのです。

自分の生活を犠牲にしないで愛護が出来るのなら誰も苦労しません。

もっともっと多くの人が愛護に参加するでしょう。

しかし本当の愛護の実態は、まさに悪戦苦闘の毎日です。

近隣からのクレームと誹謗中傷にも、ひたすら耐えねばなりません。

「動物のために??なんでそんなことやってんの??」という嘲笑も多いでしょう。

その人は、人類がどれほど動物たちから恩恵を受けてきたかを知らない人です。

あるいはその恩義を知ってさえ、それでもなお「たかが動物!」と言える人です。

「人間が一番偉いんだ!!」という意識は、実に根深い本能的意識です。

それは理屈ではなく、その人たちにとっての「本心」ですから、論議の次元ではないでしょう。

しかしその心理は「差別意識」であり「優越意識」であり「特権意識」であり「支配者意識」です。

人間は「人権」に非常に敏感です。人権を主張し、抗戦します。

「弱者」という言葉をスローガンにして「正義」を叫びます。

しかし、こと「異種の命」に対してはとことん無関心です。鼻で笑います。

自分の権利は主張しておきながら、他者(異種の命)には徹底的に冷酷なのです。

弱者を守ると言いながら、最弱者である動物のことは眼中に無いのです。

それでいて人間は「共生」を語ります。

異種の命の尊厳を認めることが共生の第一歩だというのに、

それに対して無視を続けながら平然と共生を語るのです。

科学を誇り文化を誇る人間が、「動物の処遇」に関しては、その知恵を微塵も使いません。

まるで「知恵を使うのが勿体ない」とでも言わんばかりです。

動物に関して人間が知恵を使うのは「いかに安く利用し尽くすか」の時だけなのです。

動物の尊厳に関しては、「絶望的」と言っても過言ではありません。

理解者はまだ圧倒的に少ないのです。

孤軍奮闘している愛護家をパッシングするような世の中なのです。

冷酷に捨てた無責任な飼主は「のほほん」と暮らし、保護した人が世間に叩かれるのです。

そのようなニュースを聞くとき、いつも思います。

「なぜ大手の愛護団体が救いの手を差し伸べないのか?」と思います。

大手の団体には寄付や賛助金が集まるはずです。

そして発言力も大きいはずです。

本気で動けばなんらかの対策が可能だと思うのです。

しかし殆どの場合、積極策が講じられることは無いようです。

例え手助けしたとしても、孤独に苦闘した愛護家を擁護するケースは殆どありません。

力尽きた愛護家は悪人にされ、「団体の美談」となるのです。

愛護団体は「自分の手柄」に固執せずに、その状況に於ける最善の方法を考えるべきだと感じます。

それが本当の愛護だと思います。(但しさまざまな団体がありますので一概にはできませんが。)

「悉有仏性・悉皆成仏」という言葉があります。仏教経典の言葉です。

「全ての命にことごとく仏性がある。全ての命がことごとく成仏する。」という意味です。

しかし一体何人の僧侶がこの言葉を実感しているでしょうか。

もし実感しているのならば、僧侶たちの発言や行動に現われるはずですが、

そのような傾向は感じられません。

「衆生」と言う言葉は「全ての命たち」の意味です。

仏典には終始、「衆生」が登場します。

仏教は本来、「真の共生」を説く教えなのに、それを知らない僧侶が殆どなのです。

仏教は「人間だけが幸せになればそれでいい」などとは言っていません。

しかし現実には「寺」は人間界だけを見ています。

「衆生無辺誓願度」という、仏道の誓いの言葉があります。

「あらゆる地の命たちを何としてでも救いたい」という意味です。

もしそれを本当に誓うのならば、いても立ってもいられなくなるはずです。

そして本当に誓うのなら、非肉食も当然です。

寺の「精進料理」は非肉食の食事です。

その食事の意義は本来「戒律」の問題ではありません。

「湧き上がる本心による自らの意志で肉を断つ」というのが本義です。

「断つ」というよりも「肉を食いたいという欲望が消滅する」のです。

人間の身体は本来的には肉食構造ではありません。(歯を見れば一目瞭然です。)

その人間が「肉を食う」行為は、本来的には不自然です。

ですから精進料理を特別視する視座は不自然ですし、

僧侶間での「肉食の是否の議論」も不自然です。

今の時代、肉を食わなくとも食材は山ほどあります。

「非肉食」というと奇異な目で見られますが、「肉だけ食べない」だけの話です。

無数の食材の中で、肉だけ食べないだけの話なのです。

人間に食われる「肉」には、「悲しみの念」が強烈に宿っています。

途方も無い悲しみが、その肉に宿っているのです。

「なぜ分かるんだ??」と思われるでしょうが、「伝わってくる」のです。

悲しみがありありと伝わってくるのです。

私は子供の頃、全く肉が食べれませんでした。

食べないと叱られるので必死に食べようとしましたが、

どんなに飲み込んでも「逆流」してきてしまいました。

その前に、猛烈な吐き気で口に入れられませんでした。

その後、青年期以降は食べれるようになりましたが、数年前に非肉食になりました。

ある夜、トラックに乗せられた一頭の牛の悲痛な叫びを聞いた時、衝撃を受けたのです。

言葉に出来ないほどの衝撃でした。そして肉を断ちました。

非肉食でも私は充分に丈夫です。

私はずっと肉体労働者ですが、人よりも体力がありました。

零下20度の寒気の中でストーブ無しの生活を続けても、身体は壊れませんでした。

冬期、一ヶ月に15回の食事の月もありましたが、身体は大丈夫でした。

ですから、肉を食わずとも人間は充分に生きていけることを、実感しています。

人間が非肉食になると、世界は格段に豊かになるというデータがあります。

飢えに苦しむ人がいなくなり、みんなが幸せになるそうです。

何故かというと、肉食の社会構造は「極端に非効率」だからだそうです。

不自然なことを求めると、つまりは不自然な結果になるということです。

(※そのデータについては「ベジタリアン」のサイトを御参考ください。)

肉食非肉食の問題は論議の成立が困難だと思います。

何故ならこれは理屈の問題ではないからです。

「肉を食う権利」を主張する人は「肉を食いたい人」なのです。

「肉を食いたい」という欲望に支配されていれば、聞く耳を持たないのです。

しかし「食う食わない」「殺す殺さない」の話以前に、

「家畜たちの一生がどれほどに哀れで過酷か」という問題を問うべきだと思います。

彼らの苦しみ、彼らの痛み、彼らの絶望を人々が知った上で、

それでもなお平然と無視するのならば、人間の恐ろしさを思い知ります。

人間は欲望のためならば手段を選ばない生き物なのだと思い知ります。

「かわいそう!」と思う気持ちに対して「偽善だ!」と批難する人がいるようです。

しかし「かわいそう!」が無くなったら、人間社会はいよいよ終わりです。

まずは「かわいそう!何とかしてあげたい!」が根本です。

その気持ちは心に刻まれるのです。消えることなく刻まれるのです。

平気でいられる状態と平気ではいられない状態とでは世界が違います。別世界です。

他者の苦しみを眺めて平気でいられたら、それは哀しく寂しい話です。

動物の尊厳を守るということは、人間自身の尊厳を守るということに直結しています。

それに気づいていない人が殆どのようですが、

他者を傷つけるということは、その人自身の尊厳を傷つけることになるのです。

動物の尊厳と人間の尊厳は、ダイレクトに繋がっているのです。


動物たちの悲鳴と涙で、空が真っ赤に染まります。

阿耨多羅三貌三菩提 南無華厳大悲界 南無華厳菩薩道

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