<2007年11月19日>
昔はエスキモー犬と共に「犬ゾリ」でスポーツしました。
自作のソリで、白銀の森を疾走しました。
ライもオーランも無雪期に基本トレイニングしていたので、
運動スタイルが犬ゾリに変わっても違和感なくガンガン曳きました。
対話の基本が成されていれば、それは全てに活かされるのです。
しかし「曳く」という独特の行為は、意欲的になる犬とならない犬がいます。
エスキモー犬はプロ中のプロですから意欲に燃えますが、曳くことに違和感を持つ犬も多いのです。
ですから私は犬たちの意思を尊重し、無理強いはしません。誰しも得意不得意があるのです。
それぞれの個性に適したそれぞれの方法でスポーツするのです。
ライは老境でしたので無理はさせませんでしたが、それでも単独でグングン曳きました。
オーランは若かったので、パワーを爆発させて走りました。
彼らは真剣です。闘志溢れる姿で前方を見据え、命を燃やします。
私と共に一体になって頑張るこの瞬間に、彼らは命の炎を燃やすのです。
娯楽でも競技でもありません。「共感」の世界なのです。
最後の直線、私の「ヤー!!」という気迫の声で、オーランは渾身の力を炸裂させます。
私と共に、一体になって、この瞬間に挑み、この瞬間に己の全てを賭けるのです。
その姿は美しい。表現できないほどに美しい。
私はいつも、感無量になります。彼らの姿に、感極まるのです。
誰も見ていません。ギャラリーは一人もいないのです。
誰もいないこの森に、我々の魂の重唱が響きます。
北極現地の犬ゾリは、途方も無く過酷です。
スポーツではありません。正真正銘に命懸けなのです。
荷を積んだ数百kgの大型のソリを、10頭前後のチームで日に100km近くを曳き続けます。
チームが確立するまでは、壮絶な闘いがあります。
人間界での人間の争いとは違います。大自然の摂理の元の「宿命の闘い」なのです。
チームの統制を成すために、最も底力のある統率者が選ばれるのです。
気迫と力と統率力が、過酷に試されるのです。
群れ(チーム)が存続していくためには、真の実力者が統率しなければならないのです。
しかしエスキモー犬の闘争力は凄まじいので、過酷極まる掟であり宿命です。
それでも、その宿命に果敢に挑むのです。エスキモー犬の誇りに賭けて挑むのです。
(※出来るだけその闘いを避けるために「兄弟犬」でチームを組むことが多いようです。
もちろん兄弟同士での闘いもありますが、その壮絶さのレベルが違うのです。
犬たちを見ていると実感しますが「兄弟犬」というのは、やはり特別な間柄なのです。
独特の不思議な絆で結ばれていることが、ありありと分かります。)
ボス犬はリーダーの看板の重みを知っています。
群れを導き群れを守る重責を、知っているのです。
ボス犬の覚悟は、崇高です。
彼は「支配者」ではないのです。自らを挺身する統率者なのです。
(※「犬の闘い」については別の機会に語ります。
動物たちの実像を知るには、闘いの実像も知っておかねばなりません。)
チームの統制が成されたあとも、困難は続きます。
彼らは超労働に耐えながら、常に飢えと極寒と闘うのです。
あれほどの労働をやりながら、二日に一度の食事のことも多いのです。
(※主な食料は石のように堅い凍結肉です。それを咬み砕きます。)
そして彼らは倒れるほどの消耗の中で、氷の上で眠ります。
零下50度の中でも、それが寝床です。
いかにエスキモー犬といえども、平気なはずがありません。
体内で熱を作り出すためには材料(食物)が必要です。
身体を温めるためには充分な食事が必要なのです。
そして疲労から回復するにも充分な食事が必要なのです。
しかし、その充分な食事は、滅多に味わえません。
ただひたすら寒気に耐え、疲労に耐えてきたのです。
(※もし獲物の豊富な場所で自由の身になれば、彼らは自活できます。)
彼らに「怠け者」などいません。
ただ、彼らの中にも体力の格差がありますから、
体力の劣る犬は「働きの悪い犬」として冷酷に処分されます。
「もう、一歩も歩けない」という状態の中でさえ懸命に曳き続けた犬が、
無情に殺されていったのです。酷薄な、あまりに厳しい淘汰です。
エスキモー犬は、果てしなく続いた苦闘の歴史の結晶です。
そのパワーもスピリットも、全ては極限の歴史の賜物なのです。
本種は、世間には登場しません。(世界的に)
しかしそれでよかったと思います。
彼らの本質本領は、「世間が求める家庭犬の条件」とはかけ離れているからです。
その条件を基準にするなら、彼らは全否定されかねないのです。
彼らは「ペット」の進む方向とはまるで異なる方向に進化を遂げたのです。
それが「エスキモー犬」なのです。
因みに、彼らには実際に極地の狼の血が混入しています。
しかし本種は狼の血を受けながらも、
狼でなく狼犬でもなく「エスキモー犬」という独特の種に昇華したのです。
現実に狼の気配の濃厚な個体もいますが、「エスキモー犬」なのです。
(※なお、シベリアンとかシェパードを「狼に似た犬」と言う人もいますが、
彼らには「狼特有の気配」はありません。実際に狼の血は混入していません。)
私はこのエスキモー犬の歴史に対して、祈りを捧げています。
彼らに関する文章は、追悼のレクイエムとして書いています。
私は前述の理由により、絶対に本種の飼育を人に勧めたりはしません。
(※まず何よりも「暑さ」が絶対に不可なのです。致命的な問題です。)
そして安易な発想で保存活動するつもりもありません。
私の使命は、彼らの不屈のスピリットを、世に伝え残すことなのです。
ライは狼の太郎の兄貴として、その役目を果たしてくれました。
ライと太郎のホウルの二重唱は圧巻でした。
オーランは彼ら亡きあと、ボスとして群れを守ってくれました。
彼らの野性の純情は、この心に深く刻まれています。
彼らの重厚なホウルが、今もなお森に響きます。
※彼らのエピソードは山ほどあります。いつか綴ります。
※次回は「チベタンマスチフ」のことを書きます。
**** WOLFTEMPLE ****
昔はエスキモー犬と共に「犬ゾリ」でスポーツしました。
自作のソリで、白銀の森を疾走しました。
ライもオーランも無雪期に基本トレイニングしていたので、
運動スタイルが犬ゾリに変わっても違和感なくガンガン曳きました。
対話の基本が成されていれば、それは全てに活かされるのです。
しかし「曳く」という独特の行為は、意欲的になる犬とならない犬がいます。
エスキモー犬はプロ中のプロですから意欲に燃えますが、曳くことに違和感を持つ犬も多いのです。
ですから私は犬たちの意思を尊重し、無理強いはしません。誰しも得意不得意があるのです。
それぞれの個性に適したそれぞれの方法でスポーツするのです。
ライは老境でしたので無理はさせませんでしたが、それでも単独でグングン曳きました。
オーランは若かったので、パワーを爆発させて走りました。
彼らは真剣です。闘志溢れる姿で前方を見据え、命を燃やします。
私と共に一体になって頑張るこの瞬間に、彼らは命の炎を燃やすのです。
娯楽でも競技でもありません。「共感」の世界なのです。
最後の直線、私の「ヤー!!」という気迫の声で、オーランは渾身の力を炸裂させます。
私と共に、一体になって、この瞬間に挑み、この瞬間に己の全てを賭けるのです。
その姿は美しい。表現できないほどに美しい。
私はいつも、感無量になります。彼らの姿に、感極まるのです。
誰も見ていません。ギャラリーは一人もいないのです。
誰もいないこの森に、我々の魂の重唱が響きます。
北極現地の犬ゾリは、途方も無く過酷です。
スポーツではありません。正真正銘に命懸けなのです。
荷を積んだ数百kgの大型のソリを、10頭前後のチームで日に100km近くを曳き続けます。
チームが確立するまでは、壮絶な闘いがあります。
人間界での人間の争いとは違います。大自然の摂理の元の「宿命の闘い」なのです。
チームの統制を成すために、最も底力のある統率者が選ばれるのです。
気迫と力と統率力が、過酷に試されるのです。
群れ(チーム)が存続していくためには、真の実力者が統率しなければならないのです。
しかしエスキモー犬の闘争力は凄まじいので、過酷極まる掟であり宿命です。
それでも、その宿命に果敢に挑むのです。エスキモー犬の誇りに賭けて挑むのです。
(※出来るだけその闘いを避けるために「兄弟犬」でチームを組むことが多いようです。
もちろん兄弟同士での闘いもありますが、その壮絶さのレベルが違うのです。
犬たちを見ていると実感しますが「兄弟犬」というのは、やはり特別な間柄なのです。
独特の不思議な絆で結ばれていることが、ありありと分かります。)
ボス犬はリーダーの看板の重みを知っています。
群れを導き群れを守る重責を、知っているのです。
ボス犬の覚悟は、崇高です。
彼は「支配者」ではないのです。自らを挺身する統率者なのです。
(※「犬の闘い」については別の機会に語ります。
動物たちの実像を知るには、闘いの実像も知っておかねばなりません。)
チームの統制が成されたあとも、困難は続きます。
彼らは超労働に耐えながら、常に飢えと極寒と闘うのです。
あれほどの労働をやりながら、二日に一度の食事のことも多いのです。
(※主な食料は石のように堅い凍結肉です。それを咬み砕きます。)
そして彼らは倒れるほどの消耗の中で、氷の上で眠ります。
零下50度の中でも、それが寝床です。
いかにエスキモー犬といえども、平気なはずがありません。
体内で熱を作り出すためには材料(食物)が必要です。
身体を温めるためには充分な食事が必要なのです。
そして疲労から回復するにも充分な食事が必要なのです。
しかし、その充分な食事は、滅多に味わえません。
ただひたすら寒気に耐え、疲労に耐えてきたのです。
(※もし獲物の豊富な場所で自由の身になれば、彼らは自活できます。)
彼らに「怠け者」などいません。
ただ、彼らの中にも体力の格差がありますから、
体力の劣る犬は「働きの悪い犬」として冷酷に処分されます。
「もう、一歩も歩けない」という状態の中でさえ懸命に曳き続けた犬が、
無情に殺されていったのです。酷薄な、あまりに厳しい淘汰です。
エスキモー犬は、果てしなく続いた苦闘の歴史の結晶です。
そのパワーもスピリットも、全ては極限の歴史の賜物なのです。
本種は、世間には登場しません。(世界的に)
しかしそれでよかったと思います。
彼らの本質本領は、「世間が求める家庭犬の条件」とはかけ離れているからです。
その条件を基準にするなら、彼らは全否定されかねないのです。
彼らは「ペット」の進む方向とはまるで異なる方向に進化を遂げたのです。
それが「エスキモー犬」なのです。
因みに、彼らには実際に極地の狼の血が混入しています。
しかし本種は狼の血を受けながらも、
狼でなく狼犬でもなく「エスキモー犬」という独特の種に昇華したのです。
現実に狼の気配の濃厚な個体もいますが、「エスキモー犬」なのです。
(※なお、シベリアンとかシェパードを「狼に似た犬」と言う人もいますが、
彼らには「狼特有の気配」はありません。実際に狼の血は混入していません。)
私はこのエスキモー犬の歴史に対して、祈りを捧げています。
彼らに関する文章は、追悼のレクイエムとして書いています。
私は前述の理由により、絶対に本種の飼育を人に勧めたりはしません。
(※まず何よりも「暑さ」が絶対に不可なのです。致命的な問題です。)
そして安易な発想で保存活動するつもりもありません。
私の使命は、彼らの不屈のスピリットを、世に伝え残すことなのです。
ライは狼の太郎の兄貴として、その役目を果たしてくれました。
ライと太郎のホウルの二重唱は圧巻でした。
オーランは彼ら亡きあと、ボスとして群れを守ってくれました。
彼らの野性の純情は、この心に深く刻まれています。
彼らの重厚なホウルが、今もなお森に響きます。
※彼らのエピソードは山ほどあります。いつか綴ります。
※次回は「チベタンマスチフ」のことを書きます。
**** WOLFTEMPLE ****