<2007年11月17日>
エスキモー犬は人間を怖れて超労働に耐える訳ではありません。
人間側は支配者として服従させているつもりのようですが、
エスキモー犬は自らの「使命」に生きているだけです。
彼らは身体に刻まれた北極ソリ犬の誇りと使命感で、
容赦無い酷使と飢えと極寒の世界を耐え抜いてきたのです。
エスキモー犬は「気力」の世界に生きた動物です。
壮絶な「牙の掟」を闘い抜き、自力で狩猟した犬種です。
彼らの本質を理解せずに、思うがままに服従させようとしたら必ず無理が訪れます。
今、世間は大変なペットブームのようですが、「しつけ」も盛んなようですが、
人々は犬を「自分の価値観」の枠の中に押し込めようとする傾向が強いと感じます。
その犬種の歴史を本能を習性を特徴を知ろうともせず、その個体の個性を見抜こうともせず、
そんなことにはお構い無しに絶対服従を求め、思うがままに操ろうとするようです。
これでは犬の立場はありません。
犬種の事情、その犬の事情は無視され、挙句の果てにバカ犬呼ばわりされるのです。
「抗議」の意味でやむなく軽く咬んだだけでも「咬んだ!咬んだ!」と叫ばれて処分されます。
人間は犬に極めて理不尽な要求をしますが、犬の「抵抗」は絶対に許してもらえないのです。
(※犬がもし本気で咬んだら手に穴が開きます。血が出たくらいでは咬んだうちに入りません。
それが強力な大型犬であれば穴が開くどころでは済みません。つまり犬は加減しているのです。)
あるいは極端な視座の「しつけ」も多いようです。
「厳しく接して絶対的なボスになれ」とか「絶対に叱ってはダメです、常に誉めなさい」とか、
局限的な視野で犬を「操縦」しようとするスタイルが多いようです。
この断片偏重主義では犬の全体像を知ることも出来ないし、対話に迫ることも出来ません。
私は「しつけ」という言葉は好きではありませんので「交感教導」という言葉を使いますが、
教導とは実にさまざまなファクターで成立するものであり、
その時のその犬の事情や行動の理由をとことん洞察することが不可欠の条件です。
時には厳しく、時にはおおらかに、時には強い威厳で、時にはやさしく許し、
一瞬一瞬にさまざまなレスポンスで進行します。
リーダーとしての威厳と群れを守りぬく覚悟、そして親心を、犬は無意識の内に見ているのです。
犬は「導きの者」に従うというよりも、尊敬し、慕うのです。
リーダーは敬愛の存在であり愛慕の存在なのです。
野性のリーダーは本当の意味でのボスですが、彼らは命懸けの覚悟で群れを導きます。
「力」だけではリーダーになれないのです。
群れの者たちはリーダーのその覚悟を見抜き、敬意を払います。
「服従」は強要するものではなく、自発的に湧き上がる意思であり、「結果」なのです。
教導は常に「交感」の元に繰り広げられます。
心と心のレスポンス無しに「命令」だけで真の信頼関係は結べないのです。
近頃は「コマンド」(命令符)という言葉を多用するようですが、
どうも機械的な、方程式的な雰囲気を感じてなりません。
主従関係を徹底するだけの「しつけ」や支配者意識での「しつけ」は哀しくなります。
(※私は犬を操ることには興味がありません。私の望みは共感であり対話です。)
種の異なる者同士が「共生」に向かうとき、互いに譲り合う暗黙の了解、暗黙の約束があります。
我々家族は「感応交感」での対話と教導で約束を確認し合い、了解し合います。
犬たちは「言語での思考構築」はしませんが、言葉(言霊)のニュアンスは相当に感受します。
ですから犬に対して「いい加減な言葉」を口にしてはなりません。
大げさに聞こえるかもしれませんが、どんなときでも「心からの言葉」で語るのです。
もちろん、それは愛に満ちた「親心」から出る言葉です。
例え叱る時にも、厳しい声の時にも、親心でなければならないのです。
例え自分の機嫌が悪い時でも、体調が悪い時でも、絶対に親心を忘れてはならないのです。
それが親としての、リーダーとしての「掟」です。
犬を律するのなら、その前に自らを律することが重大です。それが教導の前提条件です。
※「しつけ」と称して厳しく子犬に排泄を我慢させる人がいますが、これは虐待のようなものです。
子犬は極めて新陳代謝が盛んです。食べて排泄することが子犬の仕事です。
どんどん食べてどんどん排泄して、一杯寝て一杯遊んで、そうしてどんどん大きくなります。
発育が一段落して代謝がゆるやかになれば、自然と排泄の回数も減ってきます。
本当は子犬は自分の「巣」の中では排泄したくないのです。精一杯我慢しているのです。
子犬のその気持ちを、分かってあげてください。
犬に排泄を我慢させるのなら、飼主も我慢してみるべきです。
おそらく我慢できずにギブアップするでしょう。
**** WOLFTEMPLE ****
エスキモー犬は人間を怖れて超労働に耐える訳ではありません。
人間側は支配者として服従させているつもりのようですが、
エスキモー犬は自らの「使命」に生きているだけです。
彼らは身体に刻まれた北極ソリ犬の誇りと使命感で、
容赦無い酷使と飢えと極寒の世界を耐え抜いてきたのです。
エスキモー犬は「気力」の世界に生きた動物です。
壮絶な「牙の掟」を闘い抜き、自力で狩猟した犬種です。
彼らの本質を理解せずに、思うがままに服従させようとしたら必ず無理が訪れます。
今、世間は大変なペットブームのようですが、「しつけ」も盛んなようですが、
人々は犬を「自分の価値観」の枠の中に押し込めようとする傾向が強いと感じます。
その犬種の歴史を本能を習性を特徴を知ろうともせず、その個体の個性を見抜こうともせず、
そんなことにはお構い無しに絶対服従を求め、思うがままに操ろうとするようです。
これでは犬の立場はありません。
犬種の事情、その犬の事情は無視され、挙句の果てにバカ犬呼ばわりされるのです。
「抗議」の意味でやむなく軽く咬んだだけでも「咬んだ!咬んだ!」と叫ばれて処分されます。
人間は犬に極めて理不尽な要求をしますが、犬の「抵抗」は絶対に許してもらえないのです。
(※犬がもし本気で咬んだら手に穴が開きます。血が出たくらいでは咬んだうちに入りません。
それが強力な大型犬であれば穴が開くどころでは済みません。つまり犬は加減しているのです。)
あるいは極端な視座の「しつけ」も多いようです。
「厳しく接して絶対的なボスになれ」とか「絶対に叱ってはダメです、常に誉めなさい」とか、
局限的な視野で犬を「操縦」しようとするスタイルが多いようです。
この断片偏重主義では犬の全体像を知ることも出来ないし、対話に迫ることも出来ません。
私は「しつけ」という言葉は好きではありませんので「交感教導」という言葉を使いますが、
教導とは実にさまざまなファクターで成立するものであり、
その時のその犬の事情や行動の理由をとことん洞察することが不可欠の条件です。
時には厳しく、時にはおおらかに、時には強い威厳で、時にはやさしく許し、
一瞬一瞬にさまざまなレスポンスで進行します。
リーダーとしての威厳と群れを守りぬく覚悟、そして親心を、犬は無意識の内に見ているのです。
犬は「導きの者」に従うというよりも、尊敬し、慕うのです。
リーダーは敬愛の存在であり愛慕の存在なのです。
野性のリーダーは本当の意味でのボスですが、彼らは命懸けの覚悟で群れを導きます。
「力」だけではリーダーになれないのです。
群れの者たちはリーダーのその覚悟を見抜き、敬意を払います。
「服従」は強要するものではなく、自発的に湧き上がる意思であり、「結果」なのです。
教導は常に「交感」の元に繰り広げられます。
心と心のレスポンス無しに「命令」だけで真の信頼関係は結べないのです。
近頃は「コマンド」(命令符)という言葉を多用するようですが、
どうも機械的な、方程式的な雰囲気を感じてなりません。
主従関係を徹底するだけの「しつけ」や支配者意識での「しつけ」は哀しくなります。
(※私は犬を操ることには興味がありません。私の望みは共感であり対話です。)
種の異なる者同士が「共生」に向かうとき、互いに譲り合う暗黙の了解、暗黙の約束があります。
我々家族は「感応交感」での対話と教導で約束を確認し合い、了解し合います。
犬たちは「言語での思考構築」はしませんが、言葉(言霊)のニュアンスは相当に感受します。
ですから犬に対して「いい加減な言葉」を口にしてはなりません。
大げさに聞こえるかもしれませんが、どんなときでも「心からの言葉」で語るのです。
もちろん、それは愛に満ちた「親心」から出る言葉です。
例え叱る時にも、厳しい声の時にも、親心でなければならないのです。
例え自分の機嫌が悪い時でも、体調が悪い時でも、絶対に親心を忘れてはならないのです。
それが親としての、リーダーとしての「掟」です。
犬を律するのなら、その前に自らを律することが重大です。それが教導の前提条件です。
※「しつけ」と称して厳しく子犬に排泄を我慢させる人がいますが、これは虐待のようなものです。
子犬は極めて新陳代謝が盛んです。食べて排泄することが子犬の仕事です。
どんどん食べてどんどん排泄して、一杯寝て一杯遊んで、そうしてどんどん大きくなります。
発育が一段落して代謝がゆるやかになれば、自然と排泄の回数も減ってきます。
本当は子犬は自分の「巣」の中では排泄したくないのです。精一杯我慢しているのです。
子犬のその気持ちを、分かってあげてください。
犬に排泄を我慢させるのなら、飼主も我慢してみるべきです。
おそらく我慢できずにギブアップするでしょう。
**** WOLFTEMPLE ****