<2007年11月9日>

熊は、その日を境に訪れなくなりました。寂しい気がします。

山に食べ物はあるのだろうか、とても心配になります。

毎日、力の限りに頑張っていることが分かるから、胸が切なくなります。

大自然は美しい。

しかしその美しさは、命たちの全身全霊の献身の結晶です。

彼らの命懸けのドラマが、大自然の調和を生み出しています。

一瞬一瞬に、刻々と、命懸けのドラマが壮大な調和を造り出しているのです。


動物たちの行動を、人は簡単に「本能」のひと言で片付けます。

人々の言う本能とは、「生存本能」を指しています。

動物たちを「獣、畜生、本能」というセットで認識しています。

本能があたかも「理性」と対極の、理性に劣る原始的な行動原理だと認識しています。

しかし本能の実像は、絶妙で深秘な、愛に満ちた「教典」です。

人間の思考をはるかに超えた領域の、人為のはるかに及ばぬ領域の「聖典」なのです。

動物たちはただ生存するために生きている訳ではありません。

ただ食べて寝て繁殖している訳ではありません。

人間は動物を「生存生殖本能だけの生き物」と見ていますが、

とんでもない偏見であり、誤解です。

大自然の摂理は壮大な調和に向けての実践真理であり、

その背景には、深い深い理由と事情が隠されているのです。

人間の浅薄な理解を超えて、人間の驕りに満ちた認識を超えて、

途方も無く至難な調和を成し遂げてきたのです。

人間がどれほど科学に自信を持っているとしても、

無限の調和の前では無知に等しい単なる破壊者です。

人間社会はデータを妄信的に信仰し、偏執的な実証主義を掲げます。

自分が認識できない領域については絶対に信じません。驚くべき頑固さで・・・

人間の理解の範疇など実に微々たる領域なのに、

自信満々の人間界はそれが分かっていないし、認めようともしないのです。

何しろ人間は、動物を大自然を「物」と見てきたのです。

近代科学思想はこの考え方を柱にしてきたのです。

「動物機械論」という狂気の発想が罷り通って来たのです。


動物を大自然を「物」と見れば、おのずと人間の行動は決まってきます。

どんな残酷行為も出来るでしょうし、世間もその行為を平然と許すでしょう。

動物たちや大自然から、これほどまでに恩恵を受け続けてきたのに、

動物たちが支えてきた大自然の調和のお陰で生きてこれたというのに、

人間はひとかけらの感謝も持たずに「支配と利用」ばかりを考えてきました。

恩義を感じる感性さえ持たずに「物」と見てきたのでした。

だから例えば、平然と「動物実験」ができるのです。

「物」と見れば、なんだって出来るのです。

動物たちの涙は目に入らず、泣き叫ぶ悲鳴は聴こえないのです。

「拷問」は果てしなく続きます。

地獄の激痛に泣く動物たちの心は、徹底的に無視されてきたのです。

現代社会は、ことあるごとに「権利」を主張します。

超利己主義になりかねないレベルの主張も容認されます。

しかしそれと較べて、動物の尊厳は何と無残なレベルでしょうか。

人間に「共生」を語る資格があるとは思えません。

何しろ人間は他者の苦しみを知ろうともせず、

自分が耐えられない苦しみを他者に与えて平気でいられるのですから。

「科学」の名の元に「経済」の名の元に「文化」の名の元に、

人間はいろんな方便を使って命たちに犠牲を強要してきました。

犠牲は献身とは違います。根本から違います。

罪無き命たちの犠牲の上に成り立っているのが人間の文明だとするなら、

それは幻のようなものです。中身は何もありません。

偉大な調和から外れた身勝手極まる偽善文明です。

その暴走の果てに、こうして地球は壊れてきました。

地球は壊れ、動物たちは棲家を追われ、食べ物を奪われ、

奴隷にされ、死ぬまで酷使され、挙句の果てに冷酷無残な方法で殺されて食べられ、

見世物にされ、無理やり闘わせられ、虐待され、拷問されてきたのです。

人間はつまり、やりたい放題やってきたのです。

動物からすれば人間界は無法地帯です。

人間は「怖ろしい」のひと言に尽きます。

その凶暴さの前ではどんな猛獣も敵いません。

生まれたその時から、母子の愛さえ許されず、無邪気な遊びも奪われ、ささやかな安息も奪われ、

食われるその時まで、ただただ忍耐だけの毎日で一生を終える動物たちがいます。

命を戴くのです。かけがえのない命を戴くのです。

普通なら、心の底からの感謝があるはずです。しかし、感謝は無かったのです。

もし感謝があれば、「処刑」のその時までは、せめてもの安息を与えてあげるだろうに、

人間はそんなことにはお構いなしです。とにかく安く育てることが絶対条件なのです。

動物たちは最初から最後まで遂に「命」と見られることなく、

とことん「工場製品」の扱いをされるのです。

そして彼らは、せめてもの「やすらかな死」さえも許されないのでした。

忍耐だけの毎日の果てに、恐怖と絶望と極限の苦痛の中で死んでいくのです。

「殺す殺さない」の問題ではありません。

「殺す殺さない」以前の「せめてもの配慮」についてを語っているのです。

それすらも否定されるのなら、人間の冷酷非情を思い知ります。

「どうせ殺すんだ。飼い方殺し方なんて、どうでもいいことだ。」と言うのなら、

人間は世界最凶の生き物だと思い知ります。

どこかの国の「毛皮工場」は地獄です。この世に、正真正銘の地獄があるのです。

何の罪も無い犬たちが、生きたまま鼻を鉄鉤フックで吊られ、

生きたまま容赦なく皮を剥がされるのです。

全身の皮を剥がされても意識はあります。誰も想像できない、言語を絶した痛みです。

生きたまま身体の皮を剥がされる時の衝撃に、耐えられる者などいないのです。

愛犬家の皆さんなら、犬に「痛覚」のあることは誰でも知っているはずです。

犬に限らず、動物たちはみんな、人間と同様の痛覚を持っているのです。

痛覚は生命存続のための「センサー」として不可欠の機能なのです。

痛みを感じる感受性は、動物も人間も全く同様なのです。

ただ、動物たちは非常に忍耐強いので、それで「痛覚が鈍い」と誤解されるのです。

動物の身体を破壊して極限の痛みを与えて痛覚を調べる動物実験があります。

実験者はどこまでも機械的に観察します。これが人間の「実証主義」です。

食肉にされる犬たちがいます。

「苦痛を与えれば与えるほど栄養価が高まる」という妄信によって、

犬たちは「生き地獄」に連れ込まれます。

ただ殺す訳ではないのです。いじめ倒して食肉加工するのです。

恐怖に震える犬を引きずり出し、全身の骨が折れるほどに叩き続けるのです。

延々と続きます。何故なら「恐怖と痛みと苦しみ」を与えることが目的だからです。

そのあと犬は熱湯に何度も漬けられます。そして皮を剥がされ、加工されるのです。

おそらく、まだ意識のある犬もいるはずです。

犬は簡単には死なないのです。生命力が、逆に仇となります。

もはや「死」こそが最大の慈悲です。

そこはこの世でもあの世でもなく、地獄世界なのです。

この想像を絶したリンチに至るまでの飼育環境も、推して知るべしです。

犬たちは来る日も来る日も、絶望に耐えているのです。

人間の欲望は果てしなくエスカレートします。

異種の命に対しては「手段」を選びません。

人間が科学を誇るのなら、知性を誇るのなら、

手段を選べるはずなのに、尊厳的配慮も出来るはずなのに、

それに対しては全く無関心のままです。

大事な大事な命を戴くというのに、これでは余りにも理不尽です・・・・

**** WOLFTEMPLE ****