<2007年11月8日>
熊は、3週間に亘り訪れました。
大体日暮れ頃に来る様子だったので、
私は仕事を終えると一目散に森に帰りました。
闇が迫ると、辺りの気配が変わってきます。
森は、別の世界に入ります。
あのラップ音が響いてきます。
不思議な、音楽のような音が聴こえてくる日も多いです。
荘厳なメロディーです。
何と形容していいのか分かりません。
もちろん、周囲に音の発生源などありません。
雪に閉ざされた真冬にも、この音は聴こえてくるのです。
自然界のレクイエムのような音楽です。
全身全霊で生きる命たちへの、その渾身の生涯への、レクイエムだと思います。
私は、目を閉じて、そのレクイエムを胸に刻みます。
祈らずにはいられません。それほどに荘厳です。
自然界は弱肉強食ではありません。支配者はいません。
猛獣でさえ、強者ではないのです。
誰もが、同様に、試練を受け、献身しています。
誰もが、大自然の偉大な調和に献身しています。
大自然は、その献身の連鎖で成り立っているのです。
主役はひとりもいないのです。
全てのみんなが、平等にスターなのです。
誰が欠けても、大自然は成立しないのです。
みんなが、それを知っています。
自分が強いとか、自分が偉いとか、誰も思っていません。
ただただ、命の使命の声を聴き、力の限りに生き抜いています。
しかし彼らは、大自然の中の自らの運命を覚っています。
自分だけが助かりたいとか、自分だけが長生きしたいとか、
そんな身勝手な願望に執着してはいません。
全身全霊で生き、全身全霊で死ぬのです。
全存在を賭けて生と対峙し、全存在を賭けて死と対峙しているのです。
彼らの野性のエネルギーは、彼らの生命力は、
その「精神の姿勢」から生まれ出ているのです。
大自然は、それぞれの命たちの、それぞれの偉大なドラマを知っています。
最後の最後まで命の炎を燃やし尽くして生きる命たちの「心」を知っています。
だからレクイエムが、荘厳な愛に満ちた調べが奏でられているのだと、
そう思わずにはおれません。私はそう感じてならないのです。
大自然の命たちに定年も隠居もありません。
力尽きるまで、歩き続けるのです。
最後の力を、エネルギーの最後の一滴を使い果たした時、
彼らは静かに禅境に入ります。
怖れも執着もありません。
迫り来る別れの時、最期のクライマックスのその時まで、
大自然の壮大なシンフォニーに聴き入ります。
美しい姿です。どんな禅僧もかなわぬほどの、美しい禅者の姿です。
ウサギもキツネもシカも野ネズミも、人知れず生きる命たちのみんなが、
過酷で果敢な命のドラマの果てに、最後の歌を歌います。
生と死の狭間の中で、クライマックスのアリアを歌うのです。
大自然界が、その歌を聴いています。
厳かに、厳かに聴いているのです。
空想だと思われるかもしれません。
しかし私は空想で書いている訳ではありません。
このようなシーンがありありと心に現われるのです。
動物たちのその心境が、心に現われるのです。
我が家族、狼や犬たちの最期を看取る時、
私は彼らの最後の歌を聴きました。
言葉にできないほどの感動と尊敬に震えました。
彼らの最期の、偉大な姿に、泣きました。
どの子もみんな、そうやってこの世を去りました。
私はその姿を、心の一番深いところに刻んできました。
「動物霊」と呼ぶ人がいます。
人間の霊魂よりも格下に見る人が多いようです。
それは大きな誤解です。
動物たちの純情を、彼らの心の実像を知れば、
そのような発想は湧かないはずなのですが、
どうしても人間特有の優越意識が「偏見」を生んでしまうのです。
逆に動物たちの魂は純粋なゆえに、強い霊力を持っているようです。
邪心や偏見に染まらない超純粋な霊力だと感じます。
別の世界に旅立った我が子たち、狼や犬たちの気配を感じる時があります。
彼らが夢に現われる日も多いです。
光のシルエットになって森に現われる日もあります。
犬たちも静かにその光をみつめています。
いっせいにホウル(遠吠え)を歌い出す時もあります。
森には、さまざまな光が現われます。
いろんな色で、いろんな形で登場するのです。
熊の光も現われました。
森に夕闇が迫った頃、あの熊が来ました。
彼の背後に、大きな金色の光が輝いていました。
私は何故か、はっきりと、その光の意味を直感しました。
光は彼の母親だと、直感したのです。
母熊の愛の深さに、言葉を失いました。
母熊の偉大な愛に慟哭しました。
彼が頑張って大きくなったことを、彼が立派に成長したことを、
母熊は感慨無量に見つめてきたことでしょう。
私は祈りました。光の母熊に、そして彼に。
私に出来ることといったら、それしかありませんでしたが、
一心に、心の底から祈ったのです。
阿耨多羅三貌三菩提
南無華厳大悲界 南無華厳菩薩道
**** WOLFTEMPLE ****
熊は、3週間に亘り訪れました。
大体日暮れ頃に来る様子だったので、
私は仕事を終えると一目散に森に帰りました。
闇が迫ると、辺りの気配が変わってきます。
森は、別の世界に入ります。
あのラップ音が響いてきます。
不思議な、音楽のような音が聴こえてくる日も多いです。
荘厳なメロディーです。
何と形容していいのか分かりません。
もちろん、周囲に音の発生源などありません。
雪に閉ざされた真冬にも、この音は聴こえてくるのです。
自然界のレクイエムのような音楽です。
全身全霊で生きる命たちへの、その渾身の生涯への、レクイエムだと思います。
私は、目を閉じて、そのレクイエムを胸に刻みます。
祈らずにはいられません。それほどに荘厳です。
自然界は弱肉強食ではありません。支配者はいません。
猛獣でさえ、強者ではないのです。
誰もが、同様に、試練を受け、献身しています。
誰もが、大自然の偉大な調和に献身しています。
大自然は、その献身の連鎖で成り立っているのです。
主役はひとりもいないのです。
全てのみんなが、平等にスターなのです。
誰が欠けても、大自然は成立しないのです。
みんなが、それを知っています。
自分が強いとか、自分が偉いとか、誰も思っていません。
ただただ、命の使命の声を聴き、力の限りに生き抜いています。
しかし彼らは、大自然の中の自らの運命を覚っています。
自分だけが助かりたいとか、自分だけが長生きしたいとか、
そんな身勝手な願望に執着してはいません。
全身全霊で生き、全身全霊で死ぬのです。
全存在を賭けて生と対峙し、全存在を賭けて死と対峙しているのです。
彼らの野性のエネルギーは、彼らの生命力は、
その「精神の姿勢」から生まれ出ているのです。
大自然は、それぞれの命たちの、それぞれの偉大なドラマを知っています。
最後の最後まで命の炎を燃やし尽くして生きる命たちの「心」を知っています。
だからレクイエムが、荘厳な愛に満ちた調べが奏でられているのだと、
そう思わずにはおれません。私はそう感じてならないのです。
大自然の命たちに定年も隠居もありません。
力尽きるまで、歩き続けるのです。
最後の力を、エネルギーの最後の一滴を使い果たした時、
彼らは静かに禅境に入ります。
怖れも執着もありません。
迫り来る別れの時、最期のクライマックスのその時まで、
大自然の壮大なシンフォニーに聴き入ります。
美しい姿です。どんな禅僧もかなわぬほどの、美しい禅者の姿です。
ウサギもキツネもシカも野ネズミも、人知れず生きる命たちのみんなが、
過酷で果敢な命のドラマの果てに、最後の歌を歌います。
生と死の狭間の中で、クライマックスのアリアを歌うのです。
大自然界が、その歌を聴いています。
厳かに、厳かに聴いているのです。
空想だと思われるかもしれません。
しかし私は空想で書いている訳ではありません。
このようなシーンがありありと心に現われるのです。
動物たちのその心境が、心に現われるのです。
我が家族、狼や犬たちの最期を看取る時、
私は彼らの最後の歌を聴きました。
言葉にできないほどの感動と尊敬に震えました。
彼らの最期の、偉大な姿に、泣きました。
どの子もみんな、そうやってこの世を去りました。
私はその姿を、心の一番深いところに刻んできました。
「動物霊」と呼ぶ人がいます。
人間の霊魂よりも格下に見る人が多いようです。
それは大きな誤解です。
動物たちの純情を、彼らの心の実像を知れば、
そのような発想は湧かないはずなのですが、
どうしても人間特有の優越意識が「偏見」を生んでしまうのです。
逆に動物たちの魂は純粋なゆえに、強い霊力を持っているようです。
邪心や偏見に染まらない超純粋な霊力だと感じます。
別の世界に旅立った我が子たち、狼や犬たちの気配を感じる時があります。
彼らが夢に現われる日も多いです。
光のシルエットになって森に現われる日もあります。
犬たちも静かにその光をみつめています。
いっせいにホウル(遠吠え)を歌い出す時もあります。
森には、さまざまな光が現われます。
いろんな色で、いろんな形で登場するのです。
熊の光も現われました。
森に夕闇が迫った頃、あの熊が来ました。
彼の背後に、大きな金色の光が輝いていました。
私は何故か、はっきりと、その光の意味を直感しました。
光は彼の母親だと、直感したのです。
母熊の愛の深さに、言葉を失いました。
母熊の偉大な愛に慟哭しました。
彼が頑張って大きくなったことを、彼が立派に成長したことを、
母熊は感慨無量に見つめてきたことでしょう。
私は祈りました。光の母熊に、そして彼に。
私に出来ることといったら、それしかありませんでしたが、
一心に、心の底から祈ったのです。
阿耨多羅三貌三菩提
南無華厳大悲界 南無華厳菩薩道
**** WOLFTEMPLE ****