天ぬき69 | 鬼塚芳樹の青春賛歌 byウルフジャーキー

天ぬき69

蕎麦屋で飲む酒には、洒落た味わいがあるものだ。下手な飲み屋に入って、旨くもない

酒を飲み、ありきたりのつまみを食べて、料金だけは一流に取られるのは割に合わない。

いい蕎麦屋であればあるほど酒が吟味されているし、つまみも気が利いている。店内の

空気もカラリとしていて清々しい。だから悪酔いすることがない。

 その午後は、平日のせいか店内がガラガラだった。たまたま子供と一緒だったので、

空いているのは助かった。そして空いていたからこそ「天ぬき」を頼めると思ったのだ。

「ぼくは『のりかけ』の大盛りをください。」とにかくそばの好きな倅だ。父親に任せず

自分で注文してやがる。「私にはビールを一本。その後はお酒をぬる燗にしてください。

ところで、『天ぬき』作ってもらえますか。」と思い切って女店員に尋ねてみた。「はぁ、

『天ぬき』ですか。何ですか、それ。」しまった。やっちまった。この子はアルバイトだ。

そう気づいたのだがひるまずに続けた。「品書きにないんですよね。でも、他のお店で

頼んでもなかなかやってもらえなくてね。今はお客さんも少ないようだから、職人さんに

聞いてみてもらえませんか。」彼女は不思議そうな顔をして引っ込み、しばらくすると

微笑みながら戻って来た。「できるそうです。まあるいかき揚げですけれど、それで

よろしいでしょうか。」「結構だ。それがいい。お願いします。」この時は、私の相好も

かなり崩れていたに違いない。やっと「天ぬき」にありつける。

 「『天ぬき』って何だよ、父ちゃん。」と倅に問われて、我に返った。「うん、お前は

見たことがないはずだ。父ちゃんだって久しぶりに食べるんだ。まあ、待っていろよ。

すぐに分かるさ。」

 蕎麦屋のつまみの中心をなすのは、だしと山葵だ。この二つを縦横の軸として、あとは

種物に使う食材を組み合わせてつまみを作る。だし巻き卵、板わさ、海苔わさなどがその

代表で、原則的にはつまみのためだけの食材は置いていない。「天ぬき」も例にもれない。

なぜなら、「天ぬき」は「てんぷらそば」からそばを抜いたものなのだ。「天すい」とも

呼ぶらしい。何かの本で読んだ。なるほど、天麩羅の入った吸い物ではある。しかし、

吸い物とはいってもだしは蕎麦屋の甘汁、つまりかけそばのつゆを使い、だいいち丼に

入っているのだ。私には吸い物とは思われない。それに「天ぬき」で覚えてしまって

いる。今更呼び方を変えるのも妙な心持ちだ。昔は、ただ「ぬき」と言えばそれは即ち

「天ぬき」を意味したそうで、「鴨ぬき」や「おかめぬき」などもあることから考えると、

いかに「天ぬき」の愛好者が多かったかが知れる。

 私が突き出しのそば味噌をなめなめビールを飲んでいると、早々と倅のそばが出てきた。

角の立った、いい面構えのそばだ。いかにも新そばらしいなまめかしさもある。わずか

六才の子供が一心不乱にそばをすするのを見ていると、日本もまだ捨てたものではない、

などと感じてしまうから不思議だ。新そばの香りを楽しむために、海苔のかかっていない

ところを一箸つまませてもらった。つゆにつけずにすすり込んだそばは、鼻腔には香りを

のどには甘みを残してすっと腹へ落ちる。二箸めをつまもうとして、倅にたしなめられた。

 ビールが酒に代わり、そば味噌がなくなるころ、いよいよ「天ぬき」が運ばれてきた。

塗りの蓋を取ると、まあるいまあるい芝海老のかき揚げが一つ、透明なつゆに浮いている。

上には結び三つ葉。つゆには柚子の皮、蓋のおかげで閉じ込められていた香りの複合体が

一気に爆発する。かき揚げはまださくさくとして心地よい歯切れだ。芝海老をぷっちりと

噛めば、三つ葉や柚子とはまた違う次元の香りと海老特有の甘さが広がる。この、香りの

ヴァラエティーこそが、「天ぬき」の身上なのだ。いやがうえにも酒が進む。

 「父ちゃん変なの。そばの入っていないそば食べてんの。」「お前もやってみるか、

うまいぞ。」「いいよ、いいよ。」と倅のせいろを見るともう空だ。「もう少し入るか。

あったかいそばの上に海苔だけが乗っかってるやつ、食べるか。」「うわあ、うまそうだ。

食べる、食べる。」となって、今度は倅に、「花巻き」の追加注文となった。

 そのころ私の天麩羅はにわかに崩れ始めていた。これだ。これである。天麩羅がつゆに

溶けていく。これがかき揚げの醍醐味なのだ。一本揚げの長い海老では、なかなかこうは

いかない。よしんば衣がほぐれたところで、中身の海老が素裸になり見苦しい。品がない。

私は「てんぷらそば」でもかき揚げが好きなのだ。

 「花巻き」にも蓋が乗っていた。倅は、蓋を取った瞬間、声を上げた。やつは、そばも

好きだが、同じくらい海苔も好きなのだ。初めて目にする「花巻き」が、やつの心を強く

揺すぶったのは当たり前のことだ。まして蕎麦屋の上等な海苔である。本能が、やつに

声を上げさせたのである。「父ちゃん、何か入ってるぞ。」「それは、海苔をうまくする

魔法の薬だ。」子供である。山葵は苦手なのだ。しかし、温かいそばに入った山葵なら

辛味は飛ぶ。案の定、溶いた山葵をものともせずに倅は「花巻き」をやり始めた。

 私の銚子は、実に四本を数えた。いつもなら冷たいそばで火照りを冷まして店を後に

するところだが、その午後はやめにした。久しぶりに出会った本物の「天ぬき」の余韻を、

壊したくはなかったのである。倅のそばをまた一口横取りして、私は箸を置いた。程なく

倅が丼を空にした。

 勘定をする前に、調理場をのぞいて声をかけた。品書きにないものを作ってもらった

礼をのべたかったのである。「ありがとうございました。ご面倒をおかけしましたが、

大変おいしくいただきました。よそで頼んでも断られるばかりで、弱っていたんですよ。

今日は大いに満足しました。」すると、中年を少しだけ越えたかと思われる職人が、こう

答えた。「ありがとう存じます。いつでもお申し付けください。あたしがここにいれば、

どんな時でもやらせていただきます。ぜひ、またお越しください。」

 私も倅も何度となく訪れている店なのだ。だが、込み合っている時は、「天ぬき」を

頼むにはちと気が引けるのだ。それなのにこの返事はどうだ。客の望むものを出したい、

客に喜んでもらいたい、自分にはその自信がある、そういう職人魂が満ち満ちている。

笑顔の中に、そのまなざしの中に、まごうかたなき職人の意地が看てとれる。

 よかった、「天ぬき」を頼んで。よかった、いい職人に会えて。よかった、日本人で。

倅が私に問いかけた。「父ちゃん、そばの入っていないそばはほんとにうまいのか。」

私は、少し遠くを見ながら答えた。「ああ、うまいぞ。お前も酒を飲むようになったら、

きっと『天ぬき』のうまさが分かるさ。」蕎麦屋の心意気もな。と付け足したかったが、

やめた。心意気なんてものは、人から教わるようなものではない。自分で感じ取るものだ。

そう考え直したからである。






「僕もこんな感性の歳になりました」