さて、皆さん。聖霊があなたがたに授けてくださった特別な賜物(贈り物)について書きたいと思います。この点で、少しの誤解もないようにと願うからです。 

 

覚えがあると思いますが、あなたがたは異教徒であった時、ひとことも口がきけない偶像のもとへあちこち出かけたものでした。 

ところが、いま接している人たちは、自分は神の御霊から託されたことばを語っている、と主張する人たちです。その人たちがほんとうに神に導かれているのか、それとも、ただそんなふりをしているだけか、どのようにして見分ければよいでしょう。それは、神の御霊の力を受けている者はだれも、イエスをのろうことはできないし、また、聖霊の助けがなければ、だれも、「イエスは主です」と告白できないということです。

 

ところで、神様は私たちに、いろいろな種類の賜物を与えてくださっていますが、みな聖霊から出たものです。 

神への奉仕はいろいろですが、私たちは同一の主に仕えているのです。 

神様は私たちの生活の中で、いろいろな方法で働きかけてくださいます。しかし、神のものとされた私たちの中で、また私たちを通してお働きになるのは、ただひとりの神です。 

7 聖霊は、教会全体の利益のために、私たちを通して神の力を現してくださるのです。 

 

聖霊はある人に、賢明な助言者としての賜物を与えておられます。またある人には、研究し、人に教える点ですぐれた賜物を与えておられます。 

また、ある人には特別な信仰を与え、ある人には病気をいやす力を与えておられます。 

10 そのほか、奇跡を行う力が与えられている人もあれば、預言や説教をする力をいただいている人もいます。また聖霊は、ある人には、「自分は神のことばを与えられている」と主張する人がほんとうに神の霊によって語っているかどうか、見分ける力を与えておられます。さらに、ある人には異言(今まで知らなかった特別なことば)で語る能力を与え、別の人にその異言を解き明かす能力を授けておられるのです。 

 

11 こうしたすべての賜物と力は、同一の聖霊が思いのままに、私たちにも与えてくださるものです。

 

イエスを信じる前、私は神ではないものを拝みましたし、何か特別な力があるようにも思っていました。

そしてイエスを信じた、という自分の変化によって、それをしていないと思っています。

しかし、自分が変わったと言うよりも、聖霊が与えてくださったものによって、神・イエス以外の何かを頼りたい虚構より、神・イエスがまず私の前に来てそれ以外には特に用も無いというのが私に起きているイメージです。

 

パウロは、聖霊によらなければ「イエスは主です」と言えない、と言います。

ところで、「イエスを主と告白する」とは何でしょうか。

これはクリスチャンであるならわかると思いますが、ただ口でそう言えるかどうかの話ではありません。

イエスが神の御子であり、救い主であり、自分自身の人生を支配する主(あるじ)であることを認めるという信仰を口頭で告白することです。

 

ですから、この世に生きているうち、自分に絶えず問いかけておかなければならないことは、この告白が口を突いて出て来るものかどうか、ということです。

この聖霊の働きよって、クリスチャンであり得るのであり、教会に足しげく通ったり、聖書を毎日沢山読んだり、人に親切にしたりすることによって救われるのではないからです。

 

聖霊の働きの中で、特に重要なことをパウロは教えています。

聖霊が賜物を与えるのは、そのクリスチャンが目立って気持ち良くなるためではない、ということです。

教会全体の益になるように与えられています。

自分の証明のためではないということを、よくよく知っておかなければならないです。

 

以前、賛美チームに入ってバックコーラスを担当していたことがあります。

聖霊の働きとしか言えなかったのは、私はいつの間にか、ハーモニーのパートを自分で作れるようになりました。今までそのような能力があったことが一度もありません。

また、指導されたわけでもなかったのですが、喉が開いたような感覚があり、声が前にどんどん通るようになっていきました。

私はどのような賛美でも、「ハモる」ことが出来るようになったため、一日に3回あった礼拝の全てのチームに参加がゆるされていました。

 

その第2礼拝においては、私が作るハーモニーを聞くために毎週来ている、というご夫婦まであらわれて、私はとても嬉しかったのですが、調子に乗ってしまいました。

それからは、歌の技術や楽器の感じにばかりこだわるようになり、大事な役割を忘れて自分を表現する場所として利用していたように思います。

私は結局、疲れ果てて、という格好で賛美チームを去りました。技術的に自分を表現することなんて、出来なかったからです。そして、それ以上に上手に表現しているように見える兄弟がいたからです。そして、そのうち引っ越しによって教会もまた去りました。

 

信仰告白をさせる霊も、教会の益のために賜物を与える霊も、同じだということがポイントだと思います。

信仰が、自分を飾ったり誇らしく生きるためのものにはならないこと同じように、賜物もまた同じです。イエスを賛美させるこの霊が、教会単位での賛美へと私の体を用いてくださるということなのだと思います。

これは神の御心であり、人にとっての最善、神の愛のあらわれであると思います。

そして、それを明確に示しているものが聖書ではないのかと、あらためて受け取ることが出来ました。

 

そうだとすると、この世にありながら、神の霊の方、聖霊の力に頼って生きるとは、を、感じとることが出来てきます。

全ての人を、神の御前に連れ、全ての人を賛美へといざなうという”方向”です。

その方法は、言葉によるか態度によるか、どのような場面か、口頭なのかソーシャルメディアなのか何なのか、与えられるものは人により違いますが、そのことを賜物と呼んで良い気もします。

伝道のために生きる、とは、シンプルで間違いのない生き方なのだと、あらためて教えられている思いです。

 

「主よ、伝道のために今日、生かしてください。」この祈りが、この世で生きるということの答えである気すらしてきます。