全世界の王、主は、
ケルビムの上の王座に
ついておられます。
諸国民は震え上がり、大地は揺らぎますように。
2 シオンに立たれる主のご威光は、
この世の支配者たちには、はるかに及ばないものです。
3 どうか彼らが、きよく偉大な主の御名を、
恐れかしこみますように。
4 公正なさばきを行うこと、
それこそが、この絶大な王の統治の基です。
イスラエル中に正しい判決が下ります。
5 聖なる神である主をあがめ、
その足もとにひれ伏しなさい。
6 預言者モーセとアロン、それにサムエルが
助けを呼び求めた時、主はお答えになりました。
7 雲の柱の中から響いてくる声に、
彼らは従順に従いました。
8 神である主よ。あなたは、人々の祈りに答えて
罪をお赦しになりましたが、
その誤った行為に対しては、
厳然として罰を下されました。
9 私たちの神である主をあがめ、
エルサレムの聖なる山で礼拝しなさい。
神である主はきよいお方なのです。
神は罪をゆるしているのに、罰は与えるのだと。
ここ、本当に神を知っていく上で重要だと思います。
この時代ではダビデ例がこのことを明確にしています。
ダビデは悔い改めて神のゆるしを得ていますが、彼の国、つまりイスラエルや彼の子供らに悲惨な状況をもたらされました。
モーセもそうです。出エジプトの担い手として召されましたが、不従順の行いによって約束の地に入れなかったわけです。
ダビデもモーセもその罪がありながらゆるされて神に抱かれながらも、神の罰→懲罰を受けました。
これは言葉の順番が大事なのですが、神は罰を下しながらも、ダビデもモーセも見放さずに抱かれた→ゆるした、ということになります。
これをよく握りしめることこそ、この世にいながら神を知る大きな手掛かりになってくると思います。
現代社会で、犯罪行為によって警察に逮捕された場合、有罪であれば罰を受ける、無罪となれば罰を受けない、という流れでさばかれていきます。
この基準で罪と罰、ゆるしについて神を見るとぼやけます。なぜなら、神は愛だからです。
親子関係が最もわかりやすいと思います。
親が子の罪を「ゆるさない」とはどういうことかと言えば、親子関係の破断ではないでしょうか。
多くの場合、自分の子であるからという理由で「ゆるし」、親子関係を維持します。親から子への愛のゆえです。
しかし、ゆるしたから、放任するということはなく、子を愛しているからこそ、子の将来を思い、何らかの懲らしめを与えます。
これに似ていると思います。
ここから浮かび上がることは、ゆるしの愛と共に、罪の重大さです。
神のゆるしは、罪の看過ではないことを覚えるべきです。
神はその愛ゆえに、子を滅びに至らせる罪を、絶対に見逃されないということです。
神と比べてしまうと極めて低能な人間は、懲らしめを恐れて罪をおかさなくなるかも知れません。私はそれでよいのだと思います。懲らしめとは本来そのようなものだからです。
もう一つ、懲らしめの受け方として大事なことは、懲らしめによって、神の愛を知るということです。
罪に対する神による愛の懲らしめは、その前提として、永遠には続かないものです。
永遠に続く素晴らしいものを与えるために、時間限定の懲らしめが与えられていると取っておいた方がよいと思うのです。これが、神の愛です。
今日のみことばからは、その懲らしめに感謝して、応えるということです。
しんどい思いは、一体、自分のどんな罪が原因なのか、とか、そういうことでよいと思うのです。神の愛や思いはそこにもあると思いますから。
自分にある苦しみの部分とその原因を自分に求めて、修正する。修正できる心を聖霊のみちびきに頼る。そのようにして、一日を開始したいと思います。