相変わらず仕事に研究に身の入らない夏休みを過ごしている。あと二週間もすれば授業が始まるし、翌月には提出しなければいけない研究ノートの執筆も進んでいない。加えて外部の研究機関で分担している執筆作業も滞ったままで、いい加減に動き出さなければいけないのだが、どうにも身体がいうことを利かない。経験上、こういうのは心が焦っていても身体が焦っていないのであって、要するにまだ自分を動かすには切羽詰まり切っていないのだといえなくもない。ただ、今年に限っては春に博論を書き終えたことや、今後自分はどこに行くのかという心のもだもだがあるせいか、頑張る理由を見つけれていないような、そういう不安もある。果たして例年通りの堕落ぶりなのか、今年は特別にこのままどこまでも落ちぶれてしまうのか、というところでまだ見極めがつかないでいるのだ。

 

一方で割と書けるのはここのブログばっかりで、逆にいえばここがあるから仕事ができないのかもしれない。別に書いている時間が特段多いわけではない。ここという場所が、自分のモードをハードな状態に持っていけなくしているのだ。加えて、いま自分が抱えている執筆作業というのがいかにも単調で機械的で無味乾燥な文章を読んで要約するという作業で、いまの自分には到底耐えられそうもない。元々そういうものが苦手だし、ウエットなものを読んで感傷的にものを書く、というのが僕の本性なのだ。ついつい前に書いたものなどを昔のものも含めて振り返ってみると、余計にそんな気がする。

 

僕はよく冷たい人間だと思われることがあるけれど、確かにその一面はある一方で、どうも片手落ちというか、人間をまともに見たことのない奴ほどそういう短絡的な評価をくだしてきやがると思うことがある。もし僕がただ冷たいだけの人間でいまのような仕事をしているとすれば、上のような単調な仕事ほど作業として簡単にこなすであろうし、こんな文章をつらつらと書いたりはしない。一方で僕は嫌いな人間はどこまでも嫌いというか無関心になるし、その意味では付き合いのある人間はそれだけである程度好きだったりするのだ。学生の相談話などを聞いていれば、その意図や悩みの深さなどを察して取るに足らないと思えば適当に受け流すし、真剣になにかを考えていると思えばよく話も聞く。前者の扱いをされた人は僕のことを冷たいと思うのだろうけれど、後者の人間からしたら僕のことは却ってよくわからない謎多き人に映るらしい。最近ブログに登場させないが、今年大学を辞めたいと相談に来た一年生メンヘラちゃん(ホテルに誘ってきた4年生のメンヘラちゃんではない)なんかは、「先生はすごく人のことの考えているのかと思えば、驚くほど他人になる時がある」と苦しげな笑い顔でいっていた。それはつまり、僕が彼女の話を真剣に聞いて内面の心の渦みたいなものを観察したということであって、もしもっと僕が人間らしく振る舞えばその渦に手を突っ込んで掻き回してみたり逆流させてみたりもするかもしれない。僕はそれだけに、人間というものに、もっといえば人間らしさを出してきた人間に対してはのめり込みやすい性質なのだ。

 

人間らしいとか、人間らしくないとか、そういう言葉を使ったせいでややこしいが、僕は自分が関心のない人間と深く関心を持つ人間と大きく二つに分けるとすれば、前者を「(敢えて付け加えれば”ただの”)人間」と名づけ、後者を「こちら側の人間」あるいは「人間ではない側」と呼んでいる。なにも人は皆性格が違うし、価値観も違うわけで、そんな差別的な表現をする必要はないのだけれど、どうにも前者は僕からすれば甘えが過ぎて近づいてきてほしくないし、関心がない以上はそもそも存在しないも同じなので、敢えて見下す表現にしている。そしてそれに対してこちらはもはや「人間ではない」のだ。

 

このブログの登場人物でいえば、前述のメンヘラちゃんは「人間」だし、同僚のFは「人間ではない」、4年生のヤリマンメンヘラちゃんは「人間」のフリをした「人間ではない」側だ。

Aについてはまだわからない。おそらくこうした登場人物をみるに、「人間ではない」人たちに共通するのは自身の内面との対話が過ぎて、言葉を言葉として使い過ぎて、自分のなかの矛盾や違和感を上手に整理し切れず一種の「生きづらさ」を感じている人たちのようだ。じゃあ僕も「生きづらさ」を感じているのか、と自問自答すれば、以前の僕ならノーだったろう。けれども、最近になって彼女らをみながら、Aの話を聴きながら、そしてここに文章をつらつらと綴るうちに、自分はただ(強い双子座的に)社会に適応してきただけで、双子座のミルフィーユの表層を一枚剥がせば十分に生きづらさを抱え隠してきていたのかもしれないと思うようになった。自己内対話に矛盾を抱いて、それを常に解消するための言葉を探し続ける、今は大学生のメンヘラちゃんやAと同じようなことをずっと繰り返しながら、不器用に強い社交性で上手く覆われてきて救われた部分があったのではないかということだ。それは社会生活において幸運なことであったと同時に、懊悩を全身で表現することができなかったという意味では不自然なバランスの上に立っていたのだろうと思う。しかし表出しない以上、僕のような「人間ではない」のに「人間」に溶け込まざるを得なかった人々がほかにどの程度いるかはわからない。所詮、そういうものは社会生活に影響を及ぼさなければ当人すらも気がつかないままやり過ごせるもので、平たくいえば単に程度問題だともいえる。

 

「生きづらさ」というところで思い当たる節は最近よく思いつくのだけれど、敢えて”言葉”というものにかこつけて最近Aに話したことを書こう。ちなみに少し前、僕が「最近よく昔のことを思い出す」というと、Aは「懐古厨ですか」といってきた。そういわれれば、そうかもしれない。

 

僕の幼少の記憶というのは保育園時代から始まっていて、そのあたりから僕は「人よりダメな人間」いう印象で生きてきた。まず背が一番小さくて、給食を食べ切れず、食べるのも遅い。どうも人には敵わないものと思っていたから、自由時間になって友だちがみんな玩具箱に走って行くと、僕はどうせ一番いい玩具は僕のところには回ってこない、と最初から諦めていた。そのクラスで一番人気の玩具はレゴのようなブロック(レゴではなかったと思うが)に混じる大きなジャンボジェット機で、それを手にするのはいつもある身体の大きな男の子だった。

僕は絵を描くのはどうも好きじゃなくて、立体を作れる粘土遊びばかりしようとしたのだけれど、ゴジラのような怪獣とビルを作ろうと思っても、どうしても形が歪で上手にできなかった。怪獣は友だちの所作を真似して最初に大きな球体を作り、顔を嘴状に伸ばしてみたり、手足や尻尾を引っ張り出したりしようとしたけれど、どうしてもほかの人のようにそれらしい形にはならず、溶けた泥のような動物が横たわるのみだった。ある時は胴体だけを先に整形して、それに顔や手足の部品を別につけようとしたけれど、粘土と粘土が上手く張り合わず、指でこねこねしている間にこれもまた原型を留めない土の塊になってしまった。ビルも綺麗な立方体が作れなかず、なんとなくそれらしい障害物を並べるばかりだった。

隣では女子たちが画用紙に色とりどりのクレヨンやクーピーで模様を描いていたのだけれど、それがなんの意味があるかわからないまま真似てみたものの、選ぶ色はくすんだものばかりで、多きさも形も不揃いな曲線が画用紙の左下から右上に向けて積み上げられていくばかりだった。女の子たちは同じことをやっているはずなのに、綺麗な虹色のような模様が画用紙全体に広がっていっていた。足も遅くて鬼ごっこではすぐに捕まったし、運動会もだめだった。とにかく、僕には人並みにできることがない、というのが僕の人生の自己評価として最初だった。

 

小学校に入っても、まともできたのは本当に最初の算数の足し算引き算ぐらいで、すぐに勉強はわからなくなった。テストはほとんど解けず、寝坊、遅刻、忘れ物の常習で、もとあった自己評価はそのまま他人の僕に対する評価に移植されていった。そんななかで僕は割と冷静で「どうしてクラスに30人いるなかで、僕が一番ダメに産まれたんだろうか」と思って少し悲しくなることもあった。忘れ物といえば、僕は毎週木曜日は米飯を持参する日になっていたのに持っていけたことがほとんどなく、一人だけ主食なしの給食を食べていて、優しい同級生が時折ご飯を分けてくれるのを恥ずかしいとも思っていなかった。相変わらず食べるのが遅くて、いつも配膳が片付けられた後に一人で給食室に自分の食器を持って行っていた。時には食べ切れなかったパンを机の中に隠してずっと放置していたこともある(ある時期、転校していた同級生が上手で彼は牛乳を机に隠していた)。上靴はほとんど持って帰らなかったからいつも真っ黒だったし、持ち回りで持ち帰って洗濯することになっていた給食当番の白衣は僕の番だけ洗われることなく次の人に渡った(あれは本当に申し訳なかった)。参観日にほとんど親が来なかったのは、僕が連絡用のプリントを渡したことがなかったからで、そういう類のものは貰った時にはとても大事なものだとわかるのだけれど、ランドセルに入れた瞬間に忘れられた。そのまま翌日も教室に来るまで開けられることなく、いつしかランドセルは連絡プリントの倉庫となりずっしりと重くなった。このことを最近Fに話したら「親がうるさく言ってこない末っ子あるあるだね」と笑っていた、僕も多分そうだと思う。

 

とにかく遅刻、忘れ物、馬鹿でダメな少年だったのだけれど、友人関係はそこそこに良好で、それはいつもヘラヘラしていたからだ。友だちはいつも僕のことは馬鹿だけど明るいやつと思っていたし、人気者ではないにしてもユーモアもそれなりに持って生きていた。時には僕のことを見兼ねて助けてくれる同級生もいたし、図工や家庭科、美術、書道の類は一度も完成させたことがなかったのだけれど、一度だけ家庭科の授業で制作するナップサックを友だちが僕の分まで作ってくれた。それは本当なら僕がやらなければならないミシンの作業を、友だちが歪な曲線の縫い目とともに仕上げてくれたもので、あの時の僕ははじめてヘタでも完成させれば褒められるのかと学んだ記憶がある。それをいまにして思えば、僕は何かにつけ、ちゃんとやれなければならないという自分ルールに縛られていた部分も相応にあったのだと思う。しかしそれでも、いわゆる作品というものが最後まで出来上がったのはそれきりだったし、宿題は夏休みのものも含めて一度も完成させていない。やらなくてもヘラヘラして謝ればいいと思っていたのだ。ある時、先生に「お前は返事だけは」いいと皮肉られ、件の牛乳隠しの少年を指して「あいつは将来どうなってもいい、といって潔いが、お前はそうもいわない」と怒られた。それは僕が嘘をついたり誤魔化したりして、その場しのぎをやったのだと思われたに違いないが、それは少し違った。怒られている時の僕は確かに怒られている自覚があったし、その瞬間は心の底から反省して、改心して席に戻っていた。しかしそれは先生には多分、伝わっていなかった。

 

小学五年生の頃、帰りのホームルームで僕はふざけて騒いでいた。手の甲に口をあてて「ぶーぶー」とオナラのような音を出して喜んでいたところ、頭に来た先生に「一生やってろ」と怒鳴られた。

前置きが異常に長くなったが、冒頭に「言葉にかこつけて」綴ると書いたのはここから始まる。僕はこの「一生やってろ」を言葉通り受け止め、一生やっていなくてはいけないのだと本当に思い込んだ。友だちが帰ろうと言ったのを「やってろって言われたから」と断って、誰もいなくなった教室でずっと、ぶー、ぶー、と音を鳴らしていた。それは先生に対する嫌味ではなくて、本当にやらなくてはいけないのだと思ったからだ。泣いてはいなかったと思う。ただ、顎が痛くなって、それでもやめてはいけないのだと思い込んでひたすらに繰り返していた。どれくらいやっていたかわからないが、先生が教室に入って来て、一人教室で立ったまま音を鳴らしている僕に気がつき、先生は怖い顔で「なにやってんだ」といってきた。僕は「一生やってろっていわれたから」というと、先生は「じゃあ先生が死ねっていったら死ぬのか」といった。おそらく先生は、本当に自分がそんなことを言ったとは覚えていなかった。いまの時代だったら教員は問題になっていただろう、「一生やってろ」もそうだし、「先生が死ねっていったら死ぬのか」というのも。しかし今と昔は違うから、できることならあの先生に、もし覚えているならあの時の僕を見つけた時の心境を聞いてみたいとすら思う。大人になって知り合いの心療内科の先生にこの件を話したら、ASDといった自閉症のようなものだったのではないかといわれたが、社会生活に不便を持たない今となっては診断を確かめる術はない。

 

先生に対する恨み節はほかにもあって、僕は僕のダメさ加減を重々承知していて、改善しようとしたこともあった。それは、ちゃんと覚えていよう、忘れ物はしまい、と思ってあらゆる教科書をすべて机に入れておくというもので、それはすぐに先生にダメだと言われた。それから、当時横断バッグという学内共通のオレンジの手提げカバンをランドセルと別に持たされていたのだけれど、それに全ての教科書を入れて登下校持ち歩き(相当重たかった)、それごと机のなかに突っ込み、帰る時にはまたそれごと引きずり出すという方法で、我ながら名案だった。しかしこれもほどなく、先生に禁止された。

きちんと覚えて、みんなと同じように帰宅後にランドセルを全て開け、翌日の準備をするようにという、そういう習慣を今のうちからつけなさいということだったのだろうと思う。あるいはそれすらも考えていなかったのかもしれない。今の僕からすればあの先生もただの「人間」だ。ただ、僕の忘れ物をしないための「創意工夫」は真っ向から否定され、できもしない努力の方を強要された。毎日明日のために万全の準備をして臨む、そういう大人がこの世にどれだけいるのか。今になってわかるが、あの頃の僕は先生に世の中はそういう人ばかりで、それをやらないお前は馬鹿だと、そう言われたのに等しかった。

 

言葉にまつわる記憶はまだあって、小学生の頃、月曜に週刊少年ジャンプが出ると友人との間で話題が持ちきりだった。当時はもうドラゴンボールの連載はおわっていたかもしれない。世紀末リーダー伝たけしとか、ラッキーマンとか、そういうのが好きだった。休み時間になると最新号の話をするわけだが、どの漫画も大好きだった僕は一回読むと登場人物のセリフを一言一句記憶していて、友だちが「〜〜が……」というと、僕は「違うよ、……って言ったんだよ」と一文字単位で訂正して話の腰を折っていった。僕は心のなかでみんなあまり覚えていないものなんだなと違和感を覚えて、そのうちに僕は自分の記憶力が他人より少し優れているのを自覚し出した。ある時、小学五年生か六年生の頃だったと思う。先生がクラスの全員を立たせて、数字をランダムに読み上げていった。最初5桁の数字を言って、覚えていられない者は座り、次は6桁、7桁、と続けていく。7桁目くらいで全体の半分くらいが脱落し、9桁目に突入した時には僕とあと一人くらいしか残っていなかった。先生は少し意外そうな顔をしていたと思う。同級生は僕が残っていることを驚いていたり、嘘つき呼ばわりされたりもした。もしかしたら仲のいい友だち数人くらいは素直に僕のことを「意外と頭いい」くらいに思っていたかもしれない。結局その実験は、要するに短期記憶はランダムの数字7桁プラスマイナス2桁くらいに落ち着くのだというもので、9桁になるとほとんどの人は覚えられない。10桁になるとある一つのラインを超えてきた特殊なタイプだという。その時は9桁で終了となったが、僕は数字を覚えるくらい何が難しいのかと不思議だった。7桁なら3桁と4桁に分けて、9桁なら4桁と5桁に分けて、リズムをつければ簡単だと、そういう感じだった。

 

小学校時代はそれから不良グループの一員になって町内を特攻旗掲げた自転車で爆走したり、タバコを吸って学校にバレたりしておわったが、中学校で野球をはじめるとそういう一味とは疎遠になった。野球だけは楽しくて、というより、顧問の先生が「あいつは頑張ってる」と言っていたと耳にして、大人に褒められたことがなかった僕はそれもまた言葉通りに受け止め、野球を一生懸命にやるようになった。相変わらず中学入学時は背が小さくて塁間もボールが投げて届かず、最後まで上手ではなかった。もし、あの気まぐれで頑張っていただけかもしれない短い期間に、顧問の先生がそういうことを言ってくれていなかったら、それが自分の耳に届いていなかったら、僕の人生は変わっていたかもしれない。それぐらいに僕は簡単に人の言葉を言葉として受け止める。

 

それが行きすぎて、僕は授業中も野球の本を読んだりしていたのだけれど、ある時手に取ったメンタルトレーニングの本で自分を肯定するという常套手段を学んだ。要するに言葉にして自分に言い聞かせれば実現するという類のもので、僕は自分に「将来自分はプロ野球選手になる」と言い聞かせたりノートに書きつけたりしていたら、本当に自分はそうなるものだと洗脳された。プロ野球選手やスポーツ選手がどんな努力をしているかを調べ、高校に入ってからは最新のスポーツ科学(当時は手塚一志の初動負荷理論というのが出ていた)の本を買っては読み、色々と試しているうちに自分の身体を自分のものとして扱えなくなった。あの頃はまだゴルフぐらいでしか言われなかった言葉だが、今でいうイップスというやつだった。ボールの投げ方も打ち方も、走り方もベタ足になったりして、見るも無惨なロボットのような動きしかできなくなった。学生野球というものはお節介も多いから、父兄やOBが余計なことを色々言ってくるのも素直に受け止めてしまってわけがわからなくなった。いまでは情報を取捨選択できることもいいアスリートの条件のようだから、その意味では才能がなかったともいえる。しかし、ある時、僕が自分なりに動きを試行錯誤しているなかでちょうどいい投げ方を見つけ、それを実践しているコーチから指摘が入り、結局元のぎこちない動きに戻った。小学生の頃と同様、自分で考えてやろうとすることが悉く否定されて身動きがとれなくなった。

 

大学に入学した時には、僕は極力人の話を聞かない、頑張りたいことほど「一生懸命頑張らない」と思って、それはそれで集中力が要ったけれど頑張った。最大の逆張りの結果、僕は中国語で一番の成績を取るようなって、修士課程で通訳を学び、通訳者として働いて今は大学教員として、学者になっている。通訳の仕事はまだ成長の途上だと思う反面、一字一句にすら敏感すぎた若い頃の特性を鑑みて、ここが潮時だと思った部分もあった。頑張ることと頑張らないことの危うい綱の上を、時折バランスを崩して踏み外しながら模索していった先が今のところの僕で、反対に踏み外した可能性も、あるいはこれから踏み外す可能性も十分にある。そういう不安と自信の表裏を縫うように歩けたのは、高校までの失敗談と大学という自由な空間のおかげといってもよかった。

 

他人の言葉に左右されるのと同様に、自分の言葉にも左右されるということもある。どちらかといえば、僕にしても、メンヘラちゃんやAにしても、本当に苦しめられているのはこちらの方だ。上につらつらと述べた経歴は、あくまでも自分の特性と社会との接合をわかりやすい部分で書いたに過ぎない。それから上に書き忘れたが、境界性人格障害の彼女も「人間」の側で、去年出ていったモトカノは所詮「人間」という感じでもはや関心が一縷もない。

 

なにかその自分の言葉に縛られた経験をうまく、上の数人の話でも僕自身の話でもいいから書けないものか、強いていえば前に書いたAの一年に一回みていた夢の話は、あれから僕もその意味を考えていてヒントになりそうなものの、まだ少し熟し切っていない気がする。境界性人格障害の女性は色々とありそうだけれど、この話をするとまたこれぐらいの分量に、あるいはもっと多くなってしまうかもしれない。