3週間ぶりに野球をしてきた。6月は土曜に仕事や用事がはいることが多かったからもどかしい気持ち。

キャッチボールをしてみたところ、前回少し掴んできたかなと思った感覚が今回はあまりよくなかった。なんというか、肩の調子はよくなっている分、距離感やリズム感が合わないという感じ。いいボールを投げたいという欲も少しある。これはバッティングでもなんでも同じ。

もう一つはまた体重が1〜2キロ減ったせいか、身体が軽すぎる感じもある。いま下手したら60キロ台に近づいているところで、やっぱりスローイングに関しては70キロちょっとが一番いい(もっとあってもよかったけど、そうすると今度は座るのがきつくなる)。

 

今日は試合前に大学に寄って同僚の仕事をちらりと覗いてきた。年も近い英文学が専門の先生で、たまに飲みにも行くので話がしやすい。その学生も来ていて、僕が中国への大学生訪問団(格安一週間)に推薦した2人がわざわざお礼を言いにきた。

「ほかの大学でいい男いた?」

と聞いたら、そういう話をするタイプの先生と思わなかったのか一瞬間が空いて、

「いました!KOの2人です!」

だと。

「でっかい合コンみたいな旅行だもんなぁ、あれは」

と言ったら、彼女は少し真面目さを取り戻そうとして、

「いや、でも旅行の方もちゃんとしました」

だと。合コンは否定しないんか、と思いつつ、喜んでいたのでよかった、というのと、別に俺にはなんの得もないしな、という冷めた気持ちと両方。とことんどうやら、自分は学生が好きではないらしい。優秀な子はまだ別だけど、この子たちは優秀なのだけれど。

 

最近は、6年間の博論執筆の反動か、痩せて元気が出てきているのか、自分のなかのギラギラが止まらず羽目を外してしまうことが多い。要するに夜な夜な飲みに出かけたり、学生と飲んでしまったり、で遊びすぎてしまったり、なのだけれど、どうしてこんな風なのか翌朝に考えたりする。40年近い人生の経験上、こうやって今まで積み上げた立場やイメージを壊しにかかるのは、この場所を離れようとしているからであったりするのだけれど、要するに人に嫌われることをしてみたり、あるいはダメな奴とつるんでその場に対する未練をなくしたり。つまりダメな学生が嫌いと思いながらダメな学生とメシ食ってみたりするのは、もうこの大学が自分の中で自分の居場所ではないのだろうという、無意識のシグナルなのだろうと思った。それで、求人サイトをみて自分の専門に合う大学を見つけては履歴書と業績書と主要論文を送ったりしている。しかし、そんなので簡単に転職が決まる世界でもなければ、かといって存外に狭い業界であるので「あいつ転職しようとしてやがる」という噂が簡単に今の職場にも伝わるかもしれない。その時はその時で、大学業界を、学者を辞めるでもいいのかもしれない。

 

一つだけ思い倦ねているのが、地方の大学に応募するかどうかで、先々月には愛知の大学に2つか3つ公募があったのになんとなくスルーしてしまった。自分の場合は東京が地元ではないし、親戚もいないので日本のどこに行ってもいいのだけれど、そしてその方が転職の目は出るし、物価の安い地方の方が住みよいに決まっているのに、なんだか食指が動かなかった。いまも福岡の大学に公募があって自分の研究対象にかなり近い土地なのにも関わらず気が乗らないでいる。どうやら自分はまだ東京にいたいらしい、東京で何かすることが残っているのかもしれない。

 

東京で何かやることが、といえば、この間応募した都内の大学は父の母校だった。これは不思議な縁を感じて、すぐに応募を決めた。父は若い頃、早稲田を受験して失敗し、一年東京で浪人した挙句、翌年も不合格でそのS大学に入学生した。今年の春、父が東京に来た際にS大学を見に行きたいというので車で行くと、そのすぐそばには自分が今でもたまに行くバッティングセンターがあって、それを父に告げると「そんなニアピンなところにお前が来てたとは」と意外そうに行った。

 

実はそういう奇縁は少なくなくて、以前、世田谷区の桜という場所に引っ越したというと、父は「そこは俺が浪人時代を過ごした場所だ」という。それで近所を散策させて60年近く前の記憶を辿ってかつての下宿を探しに行くと、その場所はまさかの現存していて、お隣に住んでいた(当時)有名な社会派作家の表札まで変わっていなかった。父は最初その場所を見つけ、車を降りて建物を確認して行った時、振り向きざま口の動きだけで「あった」とこちらに伝えた。

 

その後、僕が稲城に引っ越したというと、これも父の古い記憶を呼び起こしたらしかった。

「稲城と聞いて思い出した。そこはかつて日本軍の火薬工場があって、おじいちゃんがいた場所だ」

と。この地名を聞くまで記憶の遥か奥底に眠っていた、祖父(父のとっては父親だが)の言葉が掘り起こされたのだという。それから今では米軍キャンプになっているその場所についてネットレベルで調べ、浅田次郎の小説「日輪の遺産」が戦時中のその火薬工場を舞台にしていることを知り、映画と併せて鑑賞したりして、今年には一緒に稲城中央図書館に行って関連の資料を探してきた。

 

そんなことが続いたものだから、今年の春にS大学の公募が流れてきた時はすぐに応募を決めた。それが呼水となって、ほかの場所にも履歴書を送っているのだけれど、万が一S大学が決まればまた何か自分が東京でやり残したことがあるような気がするし、決まらなければ、単に自分の転職欲を刺激するためにS大学が出てきてくれたのだと思うことにしている。