昔、カルト・顕正会では「日寛上人の前に日寛上人なく、日寛上人の後に日寛上人なし」と息巻いて会長・浅井昭衛の『六巻抄』解釈を絶対視していたが、今、日蓮正宗の一信徒となって冷静に考えると、日寛上人が説いていない教義が一つあるじゃないか、と私は気づいた。
それは「折伏・布教の行軌」だ。開目抄文段などに「末法は折伏を正規とする」ということは説かれているが、「どのように折伏を実践するか」つまり、心がまえや規範ということまでは説いておられない。
ご住職に確認した際、言われていたが、江戸時代は折伏自体がご法度であったので、積極的に「折伏の行軌」を説くことはできなかった、と。
思うのは、顕正会員に限らず、一部の創価学会員、一部の法華講員がインターネット上で相手をボロクソに貶めているのは、慈悲ゆえの行為ではなく、「理性の暴走」のゆえということだ。Twitterの言論空間でなすべきことではない。日寛上人をはじめとする先師方が何も説いていないのをいいことに、やりたい放題。
相手をボロクソに貶める行為は慈悲から起きる「而強毒之」では無く、単なる「悪口中傷」に過ぎない。付言していうならば、それは「理性の暴走」から起きている。息の長い信心をまっとうするには「理性の限界」を知らなければならない。