盲人は目が見えない分、他の感覚が研ぎ澄まされ、他の人が感じられない人の気配や視線に敏感になる。
完全に都市伝説だと思う。みな、マンガやアニメの見過ぎだ。
かれこれ目が見えなくなって16年が過ぎているが、人の気配だの人の視線だのに敏感になった覚えは無いし、むしろ視線については鈍感になったと思える。
ここで言う人の気配は、何も無いのに人が潜んでいる状態を明らかにできるものだ。周りからすると見えていない角の向こうから人がやってくるのを早く察知したときなど「やはり、盲人は人の気配に敏感だ」とか言われるが、敏感になっているのは足音である。
こちらは目が見えない分だけ、周りの環境を察知するために他の五感に集中する。それが聴覚、嗅覚、それに触覚である。
晴眼者でも小さな音を聞くとき、わざと目を閉じることがあるだろう。そうやって聴覚に神経を集中するのだが、わたしはそれを年柄年中行って居るのである。と言うか、目を開いてみても風景は同じだし。
周りから見るとわたしが近づいて来る人に顔を正確に向けて居るために目が見えていると思われているが、これは目ではなく耳を傾けているのだ。左右できちんと音を聞くために、顔が音源の方向に向くだけである。
ただ聴覚は加齢で起きる高周波の聞き取り能力が落ちているためにそこまで敏感では無くなっている。
前にも記事で書いたが、耳だけで音源の前後を完璧に把握することができない。わたしの感じたことだが、音源の前後は視覚が伴ってきちんと判定できるのだと思う。本当は真後ろで聞こえている音を、目の前で聞こえているように思えることは多い。こういうときは顔を横に向けて音源を前後から左右にすれば判定が行える。
嗅覚は見えない分だけ鋭くなっているかもしれない。ただ匂いの方向を正確に把握することは難しく、匂いの強弱を求めて身体の位置を変化するしか無い。
触覚は主に地面を捉える足の裏、そして白杖をかいして周りの状況を察知するための手である。白杖は視覚障碍者の目の延長と呼ばれるが、わたしにしてみると指先の延長である。
このように誰かが居るかどうかを判定できるのは、音源と匂いと、振動などを手足が捉えたときであり、それらが何もなく誰かが近づいて来るとわたしでも判らない。恐らく目が見えている場合は視覚外からの接近には鈍くなると思うが、わたしの場合は前後左右あまり関係無く捉えることは可能だが、視覚で捉えられない分だけ晴眼者よりは鈍くなっているはずだ。
そんなわけで視線となるとさっぱり判らない。そもそも目が見えなくなってから、誰かに見られているという感覚は鈍くなっていると思う。
そもそも、周りにどれだけの人が居るのかを正確に把握できないのである。そこから誰かがこちらを見て居るのかなんぞ判るはずもない。そこを気にすることは、不可思議なものがこちらを見て居るかもしれないという、オカルト的な怖さにつながる。
わたしの場合、もともと霊感などは存在せず、いわゆるいろいろなものが見えていたことも無かった。なので誰かがこちらに白い目を向けていても、それをはっきりと言葉にしていただかない限りは察知できないのである。
ある意味、とてもお気楽に生活していると言える。
声に出していたとしても、その音源が正しく把握できないために自分に言われているとは思わない。ほとんどの人は自分という存在にそこまで興味を抱かないと思っているために、きちんとこちらを示していただかないと判らないほどの鈍感なのである。
ただし、これらはわたしにのみ言えることで、他の視覚障碍者の方々は話が異なると思う。年期の入った盲人の方々は、それこそ気配でも視線でも、人並み以上に感じるかもしれないからだ。
これはわたしが他の人に対して、あまり興味を持っていないからかもしれない。自分中心と言えばわがままになるが、見えなくなっていることで外部を把握する能力が落ちている。
落ちているならいろいろな手段を用いて以前と同じように感じるように努力する者だが、見えなくなってみると周りの目を気にする必要を感じなくなった。
かと言って周りに迷惑をかけるような振る舞いをしようとも思わないし、周りが不快に思うような身だしなみはさけるようにしている。
とりあえず今の所、わたしの残された感覚に「あなたの存在は不快です」と訴えかけるものは無いと思える。
そんなわけで、日本人はそのような感情を表に出さず、全てを察するべきと言う意見があるのは判るが、どうしてもそれが無理な人間もいることを理解して頂ければと思う。
次回は、本当に必要なのかNHKという話をしたい。
完全に都市伝説だと思う。みな、マンガやアニメの見過ぎだ。
かれこれ目が見えなくなって16年が過ぎているが、人の気配だの人の視線だのに敏感になった覚えは無いし、むしろ視線については鈍感になったと思える。
ここで言う人の気配は、何も無いのに人が潜んでいる状態を明らかにできるものだ。周りからすると見えていない角の向こうから人がやってくるのを早く察知したときなど「やはり、盲人は人の気配に敏感だ」とか言われるが、敏感になっているのは足音である。
こちらは目が見えない分だけ、周りの環境を察知するために他の五感に集中する。それが聴覚、嗅覚、それに触覚である。
晴眼者でも小さな音を聞くとき、わざと目を閉じることがあるだろう。そうやって聴覚に神経を集中するのだが、わたしはそれを年柄年中行って居るのである。と言うか、目を開いてみても風景は同じだし。
周りから見るとわたしが近づいて来る人に顔を正確に向けて居るために目が見えていると思われているが、これは目ではなく耳を傾けているのだ。左右できちんと音を聞くために、顔が音源の方向に向くだけである。
ただ聴覚は加齢で起きる高周波の聞き取り能力が落ちているためにそこまで敏感では無くなっている。
前にも記事で書いたが、耳だけで音源の前後を完璧に把握することができない。わたしの感じたことだが、音源の前後は視覚が伴ってきちんと判定できるのだと思う。本当は真後ろで聞こえている音を、目の前で聞こえているように思えることは多い。こういうときは顔を横に向けて音源を前後から左右にすれば判定が行える。
嗅覚は見えない分だけ鋭くなっているかもしれない。ただ匂いの方向を正確に把握することは難しく、匂いの強弱を求めて身体の位置を変化するしか無い。
触覚は主に地面を捉える足の裏、そして白杖をかいして周りの状況を察知するための手である。白杖は視覚障碍者の目の延長と呼ばれるが、わたしにしてみると指先の延長である。
このように誰かが居るかどうかを判定できるのは、音源と匂いと、振動などを手足が捉えたときであり、それらが何もなく誰かが近づいて来るとわたしでも判らない。恐らく目が見えている場合は視覚外からの接近には鈍くなると思うが、わたしの場合は前後左右あまり関係無く捉えることは可能だが、視覚で捉えられない分だけ晴眼者よりは鈍くなっているはずだ。
そんなわけで視線となるとさっぱり判らない。そもそも目が見えなくなってから、誰かに見られているという感覚は鈍くなっていると思う。
そもそも、周りにどれだけの人が居るのかを正確に把握できないのである。そこから誰かがこちらを見て居るのかなんぞ判るはずもない。そこを気にすることは、不可思議なものがこちらを見て居るかもしれないという、オカルト的な怖さにつながる。
わたしの場合、もともと霊感などは存在せず、いわゆるいろいろなものが見えていたことも無かった。なので誰かがこちらに白い目を向けていても、それをはっきりと言葉にしていただかない限りは察知できないのである。
ある意味、とてもお気楽に生活していると言える。
声に出していたとしても、その音源が正しく把握できないために自分に言われているとは思わない。ほとんどの人は自分という存在にそこまで興味を抱かないと思っているために、きちんとこちらを示していただかないと判らないほどの鈍感なのである。
ただし、これらはわたしにのみ言えることで、他の視覚障碍者の方々は話が異なると思う。年期の入った盲人の方々は、それこそ気配でも視線でも、人並み以上に感じるかもしれないからだ。
これはわたしが他の人に対して、あまり興味を持っていないからかもしれない。自分中心と言えばわがままになるが、見えなくなっていることで外部を把握する能力が落ちている。
落ちているならいろいろな手段を用いて以前と同じように感じるように努力する者だが、見えなくなってみると周りの目を気にする必要を感じなくなった。
かと言って周りに迷惑をかけるような振る舞いをしようとも思わないし、周りが不快に思うような身だしなみはさけるようにしている。
とりあえず今の所、わたしの残された感覚に「あなたの存在は不快です」と訴えかけるものは無いと思える。
そんなわけで、日本人はそのような感情を表に出さず、全てを察するべきと言う意見があるのは判るが、どうしてもそれが無理な人間もいることを理解して頂ければと思う。
次回は、本当に必要なのかNHKという話をしたい。