先週の16日は8月にしては珍しく、台風が関東から近畿にかけて直撃するということで、いろいろと話題になっていた。
 台風7号はそれなりの勢力を保ったまま日本に接近していた。この時期に7号というのは少ないが、その分雷とゲリラ豪雨で8月にしては雨が多い。これも環境破壊から来る異常気象と言われそうだが、地球の気象が人間の思うとおりになるはずが無いのである。
 昭和世代であれば「台風? それがどうした出勤したまえ」というのが社畜の当たり前であったが、昨今ではそんなことをした日にはいろいろな方面から叩かれる。それに公共交通機関も無理な運転は行わなくなっていた。
 16日は金曜日と言う事で透析は無いが、訪問看護士さんがいらっしゃる予定である。JRなどは16日の運転を休止するようだし、その日に訪問するのは危険ではないのか。
 そこでケアマネージャーさんに電話して訪問をキャンセルしようと思ったのだが。
『容態確認だけならそれでも良いかもしれませんが、びわほうしさんの場合は幹部の確認と処置を行うのでなるべく訪問を受けて下さい』
「それならわたしでもできますし、透析クリニックで確認を行えますから無理に来ていただかなくても」
『確かにそうですけど、ここはきちんと確認してもらった方が良いですよ』
「ならこちらに来る時間帯は変動しても構わないとお伝えください」
 ということで、一応訪問スケジュールはそのままとなった。
 当日は朝から強い雨と曇り空が交互に訪れて居たが、看護士さんがこちらにいらっしゃる時間帯は比較的、雨は弱くなっていた。その代わりに風が出ていたようである。
 ともかく事故も無くこちらに来れたので一安心だ。わたしの所に訪れるためにケガをしたとなると申し訳なくてしかたないからである。

 よく全ての命の価値は同じだと言う。別段その意見に逆らうつもりは無い。
 日本国の憲法にも国民は法の下において皆、平等であることが記されている。これは日本だけで無く、世界的な潮流であり、特に先進国ではそれが先鋭化しすぎてポリコレにさえ発展しているところもある。
 確かに命は平等であるが、存在価値は人によって微妙に異なると思う。かといってわたしが日本国の全ての国民を全部ランク付け出来るわけではない。
 わたしの身近な人々、それらの関係性は考えることができる。例えば訪問看護士さんとわたしを比べれば、生き残るべきは看護士さんだと思うのだ。
 理由は看護士さんが生き残れば、その技量で他の人々を救うことができる。わたしはこんな身体なので、非常事態になると自分の命を守るのもままならない。
 そこまで貧弱な状態だからこそ、誰かの庇護を受けるべきと思うかもしれないが、わたしにかかるコストを他に向ければ、より多くの人々を救えるかもしれない。
 全ての透析患者を卑下するものではないが、わたしが生きて行くには十分な電気と水と透析装置に消耗品、そして的確に透析を行える技術者が必要なのだ。これだけコストをかけたとして、わたしはどれほど他の誰かに見返りを与えられるだろう。
 訪問看護士さんと透析を行わなかった場合について話した。透析が治療で無く延命処置であることは何度も説明しているが、全く透析を行わない場合の寿命は10日間ほどになると思う。
 尿酸などの老廃物の蓄石による尿毒症、それと体内の余分な水分を排出できないための心臓負担と肺水腫。食べ物も水も取らなければよいと思われがちだが、基礎代謝の段階で水分が生成されるのである。
 かといって見捨ててほしいとは思わない。助けてもらえるのであればそうしてほしいが、その順序はそれなりに後で構わないと思っている。
 状況に余裕があれば、そのコストを回してほしいと思うのだ。まずは人々を救える方の命を優先にすべきであると思うのである。
 なので産業に携わる人々についても三次産業より二次産業、二次産業より一次産業の人々の存在意義が高いと思うのだ。これは二次産業や三次産業を卑下するものではない。わたしが一人で生活できているのも、これらの方々の努力があってこそと思って居る。
 そういう意味では職業に貴賎は無い。だからこそ、今の職業に上下を付けたがる風潮がどことなく合わないのである。
 悪い例で言えばゴミ収集を行って居る方々に対して、子連れの母親が「勉強をきちんとしないとあの人たちみたいになるわよ」という言葉だ。
 日本が来日客からとても綺麗な国だと喜ばれ、評価が高いのは日本国民の民度があるかもしれないが、環境美化に携わる人々がとても真面目に働いて頂いている証拠である。
 そう考えるとわたしは実に無価値な人間に思える。仕方ないので無価値は無価値なりに日々を生きていくことにしよう。

 次回は、消えていく天才の話をしたい。