最近のハラスメント案件が、こちらの予想を超えていてむしろ面白いくらいだ。
 ネットニュースを見ていたらマルハラというのがあって、このマルが何を示すのかがさっぱり判らない。そこで記事を読み進めていると句点である「。」だとあるのだが、どうしてそれがハラスメントになるのだろう。
   問題はラインなどで発現するときに、文章の最後に「。」を着けると威圧的にとらわれるというものである。送信側は年配者、受信側はいわゆるZ世代だそうだ。
 わたしも含めた年配者は、日本語の文章の書き方として、文の最後は句点で終わるように教育を受けた。なので文章の最後は句点で終わるのが自然なのである。最近のこどもたちは国語の授業で、句読点の扱いを習わないのだろうか。
 そういえば30年も前、パソコンの月刊誌に記事を書いていた頃、文末は句点ではなくピリオドになっていた。わたしは句点で書いていたのだが、できあがった書物を見るとピリオドに変換されていたのである。
 これは記事の内容が横文字風だったし、句点よりピリオドの方が横幅を取らないために文字を詰め込めるからかもしれない。構成は担当編集者に任せていたので、文章の変更には特に何も言わなかった。
 章節と異なり、プログラムやパソコン本体の紹介記事なので、それが間違っていなければ良かったからである。
 書籍などに文章を載せる場合、基本的な日本語文章の記述ルールを踏襲しつつ、出版社ごとに異なるルールを設けているようだ。
 たとえば会話文を書くとき。
「今日は良い天気ですね」
 段落の開始では全角空白一文字を空けるのだが、会話の開始となるカギ括弧(「)は行頭から始める。そして会話の終了時の閉じカギ括弧(」)の前では句点を着けない。
 だが出版社によっては最後に句点を着ける場合も或。以前の小学館は句点を着けて痛そうだ。
「今日は良い天気ですね。」
 あと、文中に出てくる!と?のあとには、全角空白一文字をあけるとか、文末の!と?の後には句点を付けないとか。
 三点リーダー(…)は偶数個で使用しなければならないとか、意外とルールは多いが、ほとんどは出版社が自社の書籍を発刊する場合に、統一性を持たせるものだったりする。
 これらのルールが知りたければ、章節の書き方をレクチャーしているサイトを調べて見ると、原稿の基本的な書き方として最初の方に詳しく書かれている。
 わたしも意図的で無い限り、これらのルールに基づいて書いているが、それは文章の内容では無く手記述方法にいちいち突っ込まれるのが嫌だからである。
 特に三点リーダーについては「三点リーダー警察」とでも呼べる方々がいるわけで、章節はおろかブログの文章にも………のように奇数個使っていると烈火の如く起こるのである。曰く日本語を冒涜していると。
 日本語の文章に三点リーダーや!に?のような記号が登場したのは、近代のような気がするのだが、それでも日本語を冒涜しているというのだろうか。

 以前読んだ本の中で、日本語の文章は読めるが、理解していない方の割合が増えているというのがあった。
 これは隣国である大韓民国の若者でも増えている状況だと言うが、韓国語と日本語では問題点が少し異なる。
 韓国語では現在、ハングルのみによって文章を記述し、漢字を排斥しているようだが、日本の統治時代にハングルと漢字交じりの文章を教育していたために、日本語の単語がそのまま伝わっている。
 そのため同音異義語が多いのだが、それは漢字表記で分類できていたのが、表音文字であるハングルだけになると、音を聞いているだけでは文章が認識できなくなるのである。
 日本の場合はひらがなやカタカナ、漢字交じりの文章を扱っているために、文章の状態で齟齬を産むことはすくないが、日本語の文節から正しい意図を読み取れなくなっているというのである。
 また長文の読解能力も減っている。ライトノベルなどが極端に短い文節で書かれるのは、長文による誤解を防ぐためでもあるらしい。
「わたしのブログでは、ついつい長文で書き込んでいるが、どれだけ意図が伝わっているだろうか」
 例えば上記の文章でも、以下のように書くのが正解かもしれない。
「わたしのブログは長文が多い。そのため誤解を生んでいるかもしれない。正しく読み取れているだろうか」
 言語というのは時間がすぎるごとに変化していく。その証拠に平安時代に書かれた文章は、きちんと学習しなければ読み取るのも難しい。
 もはやわたしの書く文章は、昭和世代の文法を習わなければ読み取れなくなっているのだろうか。少々不安だ。

 次回は、比較することの難しさを語りたい。