何度も言っているが、わたしは単独歩行がほとんど行えない。白杖を用いないで歩行できるのは自分の部屋の中だけ、白杖で移動できるのは部屋からアパート前の路地に出る程度だ。近隣の商店街にも駅にも行える自信は無い。
 どこかにでかけるとすると、大まかな距離は介護タクシーなどで移動、細かな移動は依頼した友人や介護スタッフさんによって協力していただく。そもそも基本的に引きこもりのわたしは、外出したいという欲も無いのである。
 単独歩行が行えなくても四肢の動きに問題は無い……と、言いたいところだが最近は足の指の調子も悪いので、完全とは言えないが、とりあえずは車いすのお世話にならなくても歩いて動ける。
 この場合、介護していただく方の肩を掴んで歩くことになる。これは視覚障碍者を誘導する場合に一般的な方式らしく、介護者は障碍者の左斜め前に位置し、障碍者は介護者の右肩、もしくは右肘を掴んで歩く。
 介護者の身長が低ければ肩を、童貞とかそれ以上の場合は肘を掴む。わたしの場合はほとんど相手の肩を掴んでいるが、そのつかみ肩は介護者によって異なる。
 先日、東京医大病院でつきそっていただいた友人は「もっとしっかりと掴んでほしい」とリクエストしてきた。その理由はわたしがきちんと肩に触れているかが判らなかったからだ。
 季節は冬まっただ中、相手も厚手のコートを着ていたので、軽く触れているだけでは判りづらかったのだろう。

 さて、この肩を掴む握力の話だが、介護者によって異なるとしか言えない。
 母親が存命でそれなりに健康だった頃、外での歩行ガイドをお頼んでいたが、肩を強く掴むと怒られていた。高年齢だったし肩を掴まれるのになれていなかったのだろう。
 たまに入院していた病棟での移動支援は、看護士さんか看護助士さんが行って居たのだが、力にはリクエストしないか、もしくはしっかりと握ってほしいというリクエストがあった。
 肩を強く握るように言う方の理屈としては、自分がきちんと誘導しているかを認識するためのようである。
 わたしは母親のガイドを受ける機会が多かったので、肩の上に手を乗せる程度のソフトタッチを心がけている。そのために相手が歩調を変えると取り残されることもあった。
 ただ、緊急時を考えると、あまり強く握るのは避けたいと思うのである。例えば突然のことが起きると、手は開こうとするより握ろうとする。
 そうなると介護者の肩を思いっきり掴むことになり、相手の動きを捕縛することになる。たとえ介護者の身長がそれなりに高くとも、上腕部や肘を握りたくないのも同じ理由である。
 わたしは介護者に良く言っている言葉があり「危険が迫っているのであれば、わたしより自分を優先して逃げてほしい」と。
 これは本心である。もちろんできるなら自分も助かりたいとは思うのだが、そのために他の方を巻き込むのは嫌なのだ。なので咄嗟のときにも相手の行動を束縛するような形にならないようにしているのである。
 そうなると、どんなにリクエストされても相手の肩を強く掴むことができない。こちらも男性なので握力はそれなりにある。相手が女性の場合が多く、力加減を間違えると痕を残してしまうかもしれない。

 この問題は、わたしが単独歩行できるようになれば良いのだが、今の所透析クリニックと定期検診以外に外出する機会はほとんど無い。たまに会社に訪れることもあるが、これも介護タクシーとドライバーさんに移動支援していただくことで何とかなる。
 一番煩わしいのは年に数回程度、書類の更新に役所に訪れなければならないことだ。これは以前から述べているが、せっかくカードリーダーも購入したのでマイナンバーカードからオンラインですべて何とかできるようにしてほしいものである。
 つまり、盲人が外出するのはそれなりのリスクである。移動費用を安く抑えようとすると電車の利用が一番なのだが、視覚障碍者がホームドアの無いホームからの転落事故を25パーセントの方々が経験していることから大変危険であることがわかる。
 そんなわけでわたしが望むのは、盲人はあえて危険な外出という手段を使わずに、生活が行えるようになることである。まずは役所関係を何とかしてもらおうか、コオロギタロウくん。
 とは言え、せめて近所のセブンイレブンまで行くことができれば、単独で銀行からお金を引き落とすことができる。
 距離にすると200メートルも無いのだが、細かい通りと大きな道、中途半端に交通量があり、なかなか開かない踏切と障害物は多い。
 単独歩行が行える視覚障碍者の方々は尊敬にあたいすると思うのである。
 こうなったら少しずつ単独歩行距離を伸ばすしか無いのだが、ホームヘルパーさんにもお願いできないし、これをどうするかは今度、ケアマネージャーさんに相談してみるしかあるまい。
 それにしても、今は冬だしもう少し暖かくなってからにしよう。とか思って居ると一年は巡るのである。
 明日できることは今日行うな、先人の言葉は偉大だと思った。

 次回は、もう一月も終わりという話をしたい。