新年、明けましておめでとうございます。
昨年はいろいろとお世話になりました。今年もよろしくお願いします。
さて、2023年は1月1日が日曜日なので透析も元日にお休み、このブログもお休みだった。
一応本日は月曜日。あまり曜日感覚は無いが、透析は翌日殻なので本日はおせち料理を食べながらのんびりと過ごすことになる。
わたしのお重の中身は黒豆、栗きんとん、かまぼこ、伊達巻きの4種類だけである。ちなみに一番高価なのは栗きんとんで300グラムで1700円という、ネットスーパーでこんなに高い単品を買ったことが無かった。
あとは鶏もも肉と焼いた角餅が入った東京風のあっさり雑煮である。雑煮の汁はうどんスープで代用した。
ただ、普段おせち料理を食べないので、どれほど食べれば良いのかが判らない。リンの固まりであり栗きんとんと黒豆はあまり食べないようにしなければならない。
わたしの部屋の近所は普段から静かであり、正月となるとさらに静かになる。わたしの部屋は二階の角部屋、隣の部屋は空室なので、少し大きなボリュームで音楽を聴いても怒られないが、とりあえずはアマゾンエコーでお正月ステーションを再生しながらゆったりと過ごすのである。
12月27日に到着した創彩少女庭園の佐伯リツカ・水着バージョンだが、パーツ構成がそれなりに簡潔なので、完成までは難しく無いが、余っている部品をどこに使うかで悩んでいる。
しかし創彩少女庭園も9種類目となると、ある程度の予想はつくわけだ.基本的に優貴マドカの水着バージョンとよく似ているため、そこでの学習効果が出ているのだと思う。
さて、わりにお気楽な正月を過ごしているが、今年は1月からいろいろと病院の押せ椀お世話になりそうである。
どこが悪いと言うと良い部分を探すのが難しいが、いよいよ心臓にダメージが蓄積しているようである。これは検査を終えてみないと判らないが、場合によると久しぶりの入院となるかもしれない。
あと、足の指にまたしてもダメージが出ている。これはもう少し確定しないと言えないが、1月から医療費というか、移動と院内案内のための費用がかさむ。
こう書くとなんとも悲劇的に思えるが、当の本人は面倒に思って居るだけで、今はそこまで深刻には考えていなかったりする。
糖尿病患者が人工透析を開始した後、10年後の生存率は33パーセント、15年は15パーセント。年を重ねるごとに生存率は低くなっている。今、生きているということは、この生存率の中にいるのだからラッキーか。
逆だ。わたしは常に67パーセントと85パーセントの中に居る。それを逃れることはできないし、どこで何があっても不思議ではない。
そう、わたしはいつでもどこでもほとんど死んでいるような存在なのかもしれない。
マンガ「花の慶次」の原作者隆慶一郎氏の章節、「死ぬこととみつけたり」は戦国時代から徳川幕府が安定となる時代の、佐賀鍋島藩にいた二人の武士の物語である。
タイトルは鍋島武士の記録と言える葉隠の中の一説であるが、彼らは毎朝目が覚めると、ふとんから出る前に自分が出逢うであろう、ありとあらゆる死の瞬間をシミュレートするのだそうだ。
これは武士という仕事が闘う事にあり、恐怖を感じては戦えない。そこでどんな死の状態を体感しておけば、いざという状態にも慌てずに戦い続けることができる。まさしく、武士の仕事を確実に守ると居言うことは死ぬことと同意語であると言うことだ。
そうやって毎朝死んでいると、一日はとても軽く生きられるという。すでに死んでいるのだから何を恐れることがあるのか。
そう言えば一休さんの実在人物、一休禅師も言っていた。
「正月は冥土の道の一里塚、目出度くもありめでたくモナし」
わたしには鍋島武士の覚悟など無い。ただ、わたしの母親は佐賀県の出身であり、この葉隠武士の血を引いているのかもしれない。
残り時間は確実に少なくなる。消えそうなろうそくの火を見ながら悲観にくれて動けないより、その明かりで一つでもプラモデルを作っている方が良いだろう。
さて、正月からどこか変な話をしてしまった。
皆様におかれましては、楽しいお正月ライフを送られますように。
今年もよろしくお願いします。
昨年はいろいろとお世話になりました。今年もよろしくお願いします。
さて、2023年は1月1日が日曜日なので透析も元日にお休み、このブログもお休みだった。
一応本日は月曜日。あまり曜日感覚は無いが、透析は翌日殻なので本日はおせち料理を食べながらのんびりと過ごすことになる。
わたしのお重の中身は黒豆、栗きんとん、かまぼこ、伊達巻きの4種類だけである。ちなみに一番高価なのは栗きんとんで300グラムで1700円という、ネットスーパーでこんなに高い単品を買ったことが無かった。
あとは鶏もも肉と焼いた角餅が入った東京風のあっさり雑煮である。雑煮の汁はうどんスープで代用した。
ただ、普段おせち料理を食べないので、どれほど食べれば良いのかが判らない。リンの固まりであり栗きんとんと黒豆はあまり食べないようにしなければならない。
わたしの部屋の近所は普段から静かであり、正月となるとさらに静かになる。わたしの部屋は二階の角部屋、隣の部屋は空室なので、少し大きなボリュームで音楽を聴いても怒られないが、とりあえずはアマゾンエコーでお正月ステーションを再生しながらゆったりと過ごすのである。
12月27日に到着した創彩少女庭園の佐伯リツカ・水着バージョンだが、パーツ構成がそれなりに簡潔なので、完成までは難しく無いが、余っている部品をどこに使うかで悩んでいる。
しかし創彩少女庭園も9種類目となると、ある程度の予想はつくわけだ.基本的に優貴マドカの水着バージョンとよく似ているため、そこでの学習効果が出ているのだと思う。
さて、わりにお気楽な正月を過ごしているが、今年は1月からいろいろと病院の押せ椀お世話になりそうである。
どこが悪いと言うと良い部分を探すのが難しいが、いよいよ心臓にダメージが蓄積しているようである。これは検査を終えてみないと判らないが、場合によると久しぶりの入院となるかもしれない。
あと、足の指にまたしてもダメージが出ている。これはもう少し確定しないと言えないが、1月から医療費というか、移動と院内案内のための費用がかさむ。
こう書くとなんとも悲劇的に思えるが、当の本人は面倒に思って居るだけで、今はそこまで深刻には考えていなかったりする。
糖尿病患者が人工透析を開始した後、10年後の生存率は33パーセント、15年は15パーセント。年を重ねるごとに生存率は低くなっている。今、生きているということは、この生存率の中にいるのだからラッキーか。
逆だ。わたしは常に67パーセントと85パーセントの中に居る。それを逃れることはできないし、どこで何があっても不思議ではない。
そう、わたしはいつでもどこでもほとんど死んでいるような存在なのかもしれない。
マンガ「花の慶次」の原作者隆慶一郎氏の章節、「死ぬこととみつけたり」は戦国時代から徳川幕府が安定となる時代の、佐賀鍋島藩にいた二人の武士の物語である。
タイトルは鍋島武士の記録と言える葉隠の中の一説であるが、彼らは毎朝目が覚めると、ふとんから出る前に自分が出逢うであろう、ありとあらゆる死の瞬間をシミュレートするのだそうだ。
これは武士という仕事が闘う事にあり、恐怖を感じては戦えない。そこでどんな死の状態を体感しておけば、いざという状態にも慌てずに戦い続けることができる。まさしく、武士の仕事を確実に守ると居言うことは死ぬことと同意語であると言うことだ。
そうやって毎朝死んでいると、一日はとても軽く生きられるという。すでに死んでいるのだから何を恐れることがあるのか。
そう言えば一休さんの実在人物、一休禅師も言っていた。
「正月は冥土の道の一里塚、目出度くもありめでたくモナし」
わたしには鍋島武士の覚悟など無い。ただ、わたしの母親は佐賀県の出身であり、この葉隠武士の血を引いているのかもしれない。
残り時間は確実に少なくなる。消えそうなろうそくの火を見ながら悲観にくれて動けないより、その明かりで一つでもプラモデルを作っている方が良いだろう。
さて、正月からどこか変な話をしてしまった。
皆様におかれましては、楽しいお正月ライフを送られますように。
今年もよろしくお願いします。