12年前の今日、わたしはまだ人工透析を行っておらず、平日は会社に出勤していた。その頃わたしは関連会社に出向しており、ただ出向先に会社の部屋を一部貸し出していたためにいつも通りその部屋に居た。
そこまで広くない室内にはわたしと関係会社の担当者が一人、わたしたちはいつものように仕事をしていたのだが、午後3時少し前、部屋が少し揺れたように思えた。
地震かな、当初はわたしたちは特に驚きもせずに様子を見守っていた。すぐに収まるだろうと感じて居たが、揺れは激しくなり空いている机や背後のロッカーがバタバタと鳴り始めた。
「結構長いですね」
「そうですね」
わたしたちは相変わらず暢気な構えを見せていたが、どれほど過ぎただろうか何とか揺れは収まった。
それと同時に隣の部屋に通じる扉が勢いよく開くと……
「何やっているんですか、びわほうしさん! すぐに避難してください!」
その声に驚いてわたしたちは避難を開始する。居室は四階にあったがエレベーターは地震で動作を止めており、仕方なく手すりの無い階段を慎重に下りていく。
とりあえずビルの前に社員が集まり、部署ごとに点呼を取ったが、3月11日はそれなりに寒く、着の身着のままで外に出たわたしたちは寒さに震えることになった。
そこで震源と震度の情報が出てくる。東北地方は震度7強、東京でも震度5強というかなりの大地震であること。
とりあえずビルは問題無いようなのでそのまま居室に戻ることになったが、エレベーターは使えないのでまたしても階段で上がる。
居室に戻ると皆は家族に連絡を入れたり、地震の情報を入手しだした。電話はなかなか繋がらず、Twitterがそれなりに機能している。東北の方では津波が観測され、それが10メートルにたっすると聞こえて着た。まさかと思ったが、これは後に正しい情報だと判った。
会社側の決定でこのまま会社に残るか、そのまま帰宅が許された。ただ、交通機関は混乱が酷く、電車もバスもタクシーもまともに動いて居ない。
何とか自宅に電話を入れたわたしは、今日は会社に泊まることを伝えた。電車が動くようなら翌日に迎えに来て欲しいことを伝える。
そして同室の方に、近くのコンビニで食パン一斤、白牛乳1リットル、イチゴジャムを買ってきてもらった。晩ご飯はそれで済まそうと思ったのである。
同室の方は徒歩で帰るという住所は錦糸町、おそらく2、3時間はかかるだろう。
その間にも細かい余震が起きる。当時、携帯電話のコンテンツを作成しており、3キャリアのフューチャーホンが全部で10台ほどあったが、それが一斉に地震予告警報を鳴らすのは壮観だった。
そして寝れない夜が来る。寝れなかったのは余震があったからではなく、会社の上司がことあるごとに今後の方針を相談に来たためである。
食パンに少し飽き飽きしながら午前1時を越えているし、そろそろ寝ようかなとか思うと……
「ところでびわほうしさん、こういう時の備蓄食料なんだけどさ」
いやいやいや、ともかくそれはもう少し落ち着いてからにしようよと思いながら、何度も鳴り響く地震警報を聞きながら相談に乗る。時間外手当が欲しいと思ったことはなかった。
翌日、電車はそれなりに動き出し、母親はわたしを迎えに来てくれた。そのままタクシーを捕まえて地質に戻るが、さすがに震度5強は部屋の状態をよりエントロピーを増大させていた。
あの日、全てが変わったのだと思う。余震はある程度収まったものの、テレビからはコマーシャルが消えて、テレビしか楽しみが無かった母親を絶望させる。
津波の被害は予想外であり、そこにいくつものデマが流れた。それでもわたしたちは日常を取り戻さなければならない。
大地震と水爆とゴジラが怖くては東京に住めない。
今の所関東大震災に匹敵する地震は東京に起きていないが、東京に居る限りそれが完全に無くなったとは言えないのである。
災害はわたしたちがそれを忘れかけたときにまたやってくる。それでもわたしたちは強く生きていくしかないのである。
改めて、あの時命を落とされた方々にご冥福を、復興に関わった全ての方々に感謝を。
日本人は今でも、元気に暮らしています。
次回は日本人と米の関わりについて考えたい。
そこまで広くない室内にはわたしと関係会社の担当者が一人、わたしたちはいつものように仕事をしていたのだが、午後3時少し前、部屋が少し揺れたように思えた。
地震かな、当初はわたしたちは特に驚きもせずに様子を見守っていた。すぐに収まるだろうと感じて居たが、揺れは激しくなり空いている机や背後のロッカーがバタバタと鳴り始めた。
「結構長いですね」
「そうですね」
わたしたちは相変わらず暢気な構えを見せていたが、どれほど過ぎただろうか何とか揺れは収まった。
それと同時に隣の部屋に通じる扉が勢いよく開くと……
「何やっているんですか、びわほうしさん! すぐに避難してください!」
その声に驚いてわたしたちは避難を開始する。居室は四階にあったがエレベーターは地震で動作を止めており、仕方なく手すりの無い階段を慎重に下りていく。
とりあえずビルの前に社員が集まり、部署ごとに点呼を取ったが、3月11日はそれなりに寒く、着の身着のままで外に出たわたしたちは寒さに震えることになった。
そこで震源と震度の情報が出てくる。東北地方は震度7強、東京でも震度5強というかなりの大地震であること。
とりあえずビルは問題無いようなのでそのまま居室に戻ることになったが、エレベーターは使えないのでまたしても階段で上がる。
居室に戻ると皆は家族に連絡を入れたり、地震の情報を入手しだした。電話はなかなか繋がらず、Twitterがそれなりに機能している。東北の方では津波が観測され、それが10メートルにたっすると聞こえて着た。まさかと思ったが、これは後に正しい情報だと判った。
会社側の決定でこのまま会社に残るか、そのまま帰宅が許された。ただ、交通機関は混乱が酷く、電車もバスもタクシーもまともに動いて居ない。
何とか自宅に電話を入れたわたしは、今日は会社に泊まることを伝えた。電車が動くようなら翌日に迎えに来て欲しいことを伝える。
そして同室の方に、近くのコンビニで食パン一斤、白牛乳1リットル、イチゴジャムを買ってきてもらった。晩ご飯はそれで済まそうと思ったのである。
同室の方は徒歩で帰るという住所は錦糸町、おそらく2、3時間はかかるだろう。
その間にも細かい余震が起きる。当時、携帯電話のコンテンツを作成しており、3キャリアのフューチャーホンが全部で10台ほどあったが、それが一斉に地震予告警報を鳴らすのは壮観だった。
そして寝れない夜が来る。寝れなかったのは余震があったからではなく、会社の上司がことあるごとに今後の方針を相談に来たためである。
食パンに少し飽き飽きしながら午前1時を越えているし、そろそろ寝ようかなとか思うと……
「ところでびわほうしさん、こういう時の備蓄食料なんだけどさ」
いやいやいや、ともかくそれはもう少し落ち着いてからにしようよと思いながら、何度も鳴り響く地震警報を聞きながら相談に乗る。時間外手当が欲しいと思ったことはなかった。
翌日、電車はそれなりに動き出し、母親はわたしを迎えに来てくれた。そのままタクシーを捕まえて地質に戻るが、さすがに震度5強は部屋の状態をよりエントロピーを増大させていた。
あの日、全てが変わったのだと思う。余震はある程度収まったものの、テレビからはコマーシャルが消えて、テレビしか楽しみが無かった母親を絶望させる。
津波の被害は予想外であり、そこにいくつものデマが流れた。それでもわたしたちは日常を取り戻さなければならない。
大地震と水爆とゴジラが怖くては東京に住めない。
今の所関東大震災に匹敵する地震は東京に起きていないが、東京に居る限りそれが完全に無くなったとは言えないのである。
災害はわたしたちがそれを忘れかけたときにまたやってくる。それでもわたしたちは強く生きていくしかないのである。
改めて、あの時命を落とされた方々にご冥福を、復興に関わった全ての方々に感謝を。
日本人は今でも、元気に暮らしています。
次回は日本人と米の関わりについて考えたい。