本日は鏡開きだそうである。去年は鏡餅を飾ったのだが、今年はその余裕が無く、非常食として購入したサトウの切り餅を良く食べている。
以前はフライパンで焼いて醤油をつけてシンプルに食べていたが、最近ではオーブントースターで焼くと、インスタントのしるこに入れて食べている。きなこ餅も好きなのだが準備がいろいろと面倒で行って居ない。
こどもの頃は近所の大人たちが年末に餅つきをしており、つきたてのお餅から鏡餅を作って居た。できたてはふんわりとしていて白く旨そうだが、さすがに年末年始を超えるとヒビが入り表面も堅くなる。
それはそれ、カビさえ生えなければ一応の保存食である。加熱することで本来の柔らかさを取り戻す。特に汁物に入れれば手作りの餅だけ合ってとても旨い。
昨今の鏡餅は表面だけビニール製の鏡餅の形をしており、中には切り餅が詰まっているタイプが多いようである。
鏡餅を開く場合は武家社会の伝統に則るというのか、刃物を使用せずに木槌などで砕くようだ。そこでも「切る」とか「壊す」などの言葉を使用せず開運に繋がる「開く」という言葉を選んでいる。
うなぎが関東では背開きが基本になっているのは、腹から開くと切腹を思い浮かべるためというのは有名だが、他の魚を三枚に下ろすときは腹からおろしているのではないかと思ったり。何故にうなぎだけが特別なのかは不思議である。
江戸時代の末期、ペリー来航とともに江戸を訪れた海外の使節団が驚いたのは、将軍様の食事が意外と質素だったことにあるようだ。
それでも尾頭付きのおかずが並んで居るのだし、一般庶民に比べるとかなり贅沢なのだが、それでも一国を治めている人物の食事にしては分量が少なくて見栄えも良く見えなかったのだろう。
今では食事には炊いた白米に味噌汁、それにおかずが数品並ぶのが普通だが、それが一般的になったのは昭和中期を過ぎた頃だという。
江戸時代は前半は一日二食、元禄を過ぎた頃からは三食になったようだが、主に吐くまいと味噌汁にお新香や漬物が逸品付く程度、焼き魚などが出ることはほとんど無かったようである。
それで良く身体が動くと思うが、食べている米の量は大人一人当たり一日5号である。宅前の分量にすると750グラム、それが炊き上がると1.5キログラム近くになる。それだけ食べていればエネルギーに関して十分だが、付け合わせが味噌汁と漬物だけだとしたらビタミン不足になるのは十分理解できる。
これは一般町民だけで無く武士の家でも同じだったようだ。むしろ幕末近くは豪商の家の方が金持ちで、そこから鐘を借りている貧乏武士が多かったようで、食事は同じように白米に味噌汁、それに漬物が付く程度だったそうである。
そこで武士が言えに訪れた時、食事に出すのは丼飯と味噌汁が二杯、それにタクアンが二切れと決まっていたようだ。
何故にタクアンが二切れなのかというと、一切れだと「人切れ」に繋がり、三切れだと「見切る」に繋がるからだという。
武士は以前から演かつぎがあり、こういうことには細かいということだろう。
武士とは直接関係ないのだが、旅人が宿の調達に困ったとき、最期に頼るのは職場を治めているヤクザの家に一宿一飯の恩義に預かることだという。
一宿一飯の恩義とは、一拍分の食事と寝床を借りるが、そのためにその日に何か起きれば組の者として働くというものである。大抵はそんなに頻繁に出入りがあるわけでは無いので、旅人としては食事と寝床を確保する手段として有効だったという。
ここで出てくる食事だが、必ず丼飯の大盛りを二杯食べなければならない。それはかなりの分量になるが拒むことができないそうだ。
なので大盛りの丼飯の頂上部分を少し食べると、そこでおかわりを要求するそうである。これで二杯食べたという面目が立つそうだ。
またおかずに出される魚の焼き物だが、骨も残すことが許されなかったそうだ。なので残った骨などは手ぬぐいに治めて懐に入れると、食事後にそっと庭先などに捨てたそうである。
ここも形式を重んじる任侠の世界と言えた。
これらが形式として綺麗に成立すると、それが作法となるのだろう。
昨今ではありとあらゆる場面で作法が問われるが、本当の意味での作法とは相手との無駄な闘争を起こさないための手段だったと言える。
例えば会合に武器を持ち込まないようにするのに「作法ですので」と言われればそれに従うしか無い。そこで武器を手放すことにお互いに理由付けになるわけだ。
最近では作法もどこか行きすぎているというのか、もはやギャグのようなものもあるために、少し古い習慣でも見直してみればよいのにと思うのである。
次回はわたしが失明に至る途中で経験した不思議な光景について語りたい。
以前はフライパンで焼いて醤油をつけてシンプルに食べていたが、最近ではオーブントースターで焼くと、インスタントのしるこに入れて食べている。きなこ餅も好きなのだが準備がいろいろと面倒で行って居ない。
こどもの頃は近所の大人たちが年末に餅つきをしており、つきたてのお餅から鏡餅を作って居た。できたてはふんわりとしていて白く旨そうだが、さすがに年末年始を超えるとヒビが入り表面も堅くなる。
それはそれ、カビさえ生えなければ一応の保存食である。加熱することで本来の柔らかさを取り戻す。特に汁物に入れれば手作りの餅だけ合ってとても旨い。
昨今の鏡餅は表面だけビニール製の鏡餅の形をしており、中には切り餅が詰まっているタイプが多いようである。
鏡餅を開く場合は武家社会の伝統に則るというのか、刃物を使用せずに木槌などで砕くようだ。そこでも「切る」とか「壊す」などの言葉を使用せず開運に繋がる「開く」という言葉を選んでいる。
うなぎが関東では背開きが基本になっているのは、腹から開くと切腹を思い浮かべるためというのは有名だが、他の魚を三枚に下ろすときは腹からおろしているのではないかと思ったり。何故にうなぎだけが特別なのかは不思議である。
江戸時代の末期、ペリー来航とともに江戸を訪れた海外の使節団が驚いたのは、将軍様の食事が意外と質素だったことにあるようだ。
それでも尾頭付きのおかずが並んで居るのだし、一般庶民に比べるとかなり贅沢なのだが、それでも一国を治めている人物の食事にしては分量が少なくて見栄えも良く見えなかったのだろう。
今では食事には炊いた白米に味噌汁、それにおかずが数品並ぶのが普通だが、それが一般的になったのは昭和中期を過ぎた頃だという。
江戸時代は前半は一日二食、元禄を過ぎた頃からは三食になったようだが、主に吐くまいと味噌汁にお新香や漬物が逸品付く程度、焼き魚などが出ることはほとんど無かったようである。
それで良く身体が動くと思うが、食べている米の量は大人一人当たり一日5号である。宅前の分量にすると750グラム、それが炊き上がると1.5キログラム近くになる。それだけ食べていればエネルギーに関して十分だが、付け合わせが味噌汁と漬物だけだとしたらビタミン不足になるのは十分理解できる。
これは一般町民だけで無く武士の家でも同じだったようだ。むしろ幕末近くは豪商の家の方が金持ちで、そこから鐘を借りている貧乏武士が多かったようで、食事は同じように白米に味噌汁、それに漬物が付く程度だったそうである。
そこで武士が言えに訪れた時、食事に出すのは丼飯と味噌汁が二杯、それにタクアンが二切れと決まっていたようだ。
何故にタクアンが二切れなのかというと、一切れだと「人切れ」に繋がり、三切れだと「見切る」に繋がるからだという。
武士は以前から演かつぎがあり、こういうことには細かいということだろう。
武士とは直接関係ないのだが、旅人が宿の調達に困ったとき、最期に頼るのは職場を治めているヤクザの家に一宿一飯の恩義に預かることだという。
一宿一飯の恩義とは、一拍分の食事と寝床を借りるが、そのためにその日に何か起きれば組の者として働くというものである。大抵はそんなに頻繁に出入りがあるわけでは無いので、旅人としては食事と寝床を確保する手段として有効だったという。
ここで出てくる食事だが、必ず丼飯の大盛りを二杯食べなければならない。それはかなりの分量になるが拒むことができないそうだ。
なので大盛りの丼飯の頂上部分を少し食べると、そこでおかわりを要求するそうである。これで二杯食べたという面目が立つそうだ。
またおかずに出される魚の焼き物だが、骨も残すことが許されなかったそうだ。なので残った骨などは手ぬぐいに治めて懐に入れると、食事後にそっと庭先などに捨てたそうである。
ここも形式を重んじる任侠の世界と言えた。
これらが形式として綺麗に成立すると、それが作法となるのだろう。
昨今ではありとあらゆる場面で作法が問われるが、本当の意味での作法とは相手との無駄な闘争を起こさないための手段だったと言える。
例えば会合に武器を持ち込まないようにするのに「作法ですので」と言われればそれに従うしか無い。そこで武器を手放すことにお互いに理由付けになるわけだ。
最近では作法もどこか行きすぎているというのか、もはやギャグのようなものもあるために、少し古い習慣でも見直してみればよいのにと思うのである。
次回はわたしが失明に至る途中で経験した不思議な光景について語りたい。