そして中国政府刊行の雑誌と写真集を応募する権利を得た
若いうちは何でも、良い!と思った方が良いから、父さんのお金から応募させてあげる
と、言われ、一年間読む事にした
当時の日本というのはバブルで、何でも良いから、って雰囲気があったので、進んで取って良い事になった

↑これだ
時に人間、常識を壊す行動をとっても良い
常識にいつも沿う行動からは、何も生まれない
写真集が綺麗で、そこで中国に関係する本は良く読むようになり、大学でも勉強したい、と、そこで勉強を始めた、歴史も
当時は国際マラソンも行われて、生中継で北京市内の風景様子などは見れた
大学も東洋史を学ぶ学校に入ろう、と必死こいて勉強をしていた
世界史担当老先生は、韓国史は飛ばしていた
何で、韓国史やらないんだ?
と、必ず韓国史は飛ばしていた
当時は知らなかったのだ、自分は
結局、韓国史の卒論を書いたが
大学の時は最初自力で、のちに韓国史担当の他大学の教授が現れて、何とかなるようにはなった
細かい事は言わないが勉強続き、結局勉強ばかりだった
早稲田出身の日本史の先生が、交流史という事で韓国史も伝えてくれた
あれはのちに助かったな、先生ありがとうございます、と礼を言いたかった
日本史先生と、他大学の韓国史の先生
僕はそのお二方が好きだな
もう、辞めてるだろうけど
助けられました
勉強って、止めない方が良い
続けられるのなら、続ける方が良い
卒論は、日にちを決め、暴走気味に書いた
書いた日数は、2週間だけ
寝なかったなあ、あの際は
言っちゃえば、文章書くのもかなり苦手だった
80枚がやっとだった