終戦の日ですね。
毎年、ヒロシマ、ナガサキ、そして終戦の日という流れですが、私の地元だとその間にもう一つあるんですよね。
8月7日、豊川海軍工廠の空襲による被爆です。
多分、今年もなんらかの記念式典をやったんだと思います。
『ひばく』と聞くと放射線に晒された『被曝』がすぐ思い浮かびますが、爆撃を受けるのは『被爆』ですね。
愛知県豊川市には、その昔大きな兵器工場があったのですが、空襲で壊滅しました。
それはずっと知ってはいたんですが、去年帰国したらいつのまにか工廠跡地が記念公園になっていて、見学できるようになってたんです。
その時の写真を、もらってきたパンフレットやリーフレットを参考に簡単に紹介しますね。
まず、日中戦争まっただ中だった1939年(昭和14年)、大規模な工廠が作られました。
工廠とは軍の工場のことです。
その頃はまだ合併前だったので豊川市ではなく、2町1村の約186ヘクタールにわたる敷地となりました。後にこれらが豊川市になるのは1943年です。
関連施設も出来、人口も増え、工廠とともに発展してきた街だったんですね。
さて、工廠には様々なものを生産する部署がありましたが、中でも機銃生産は日本最大どころか東洋一の規模だったそう。
なるほどそういう点で空爆の対象に選ばれたんですかね。
公園内の一角に、土が盛り上がっている箇所があります。
一見するとただのトンネルのようですが、ここは火薬庫だった場所です。
この辺りには火薬類を製造する施設があったようですね。
中は木造のこんな感じです。
火薬なので、内部の温度や湿度の調整にはかなり気を使った造りになってるんだとか。
こちらは信管置場。
信管というのは、弾丸の起爆装置だそうです。
建物の周りをぐるっと土塁に囲まれてますが、これは爆発事故が起きた際に周囲を巻き込まないようにするための措置。
やっぱり火薬を扱う以上、爆発も想定しないといけないんだね…
何もないよりはいいに違いありません。
土塁に開けられたトンネルを通って建物に入ります。
木の引き戸がとても昭和。
当たり前ですが。
よく、学校の怪談で出てきた『旧校舎』の雰囲気ですよね。
コンクリの校舎とは別に、今は使われていない木造の旧校舎が校庭の隅にあって、そこでなんらかの怪異が…みたいなパターンの話、結構ありませんでした?
私の時代でさえ、そもそも木造旧校舎がある学校が一体どれだけあるのかといった具合だったので、旧校舎怪談はきっともう絶滅したでしょうね。
でも『旧校舎』には今でもなんともいえない憧れがあるんですよ。
豊橋や田原には古い小学校を民俗資料館に利用してるとこもありましたが、あれはとてもいいですね。
余談でした。
なんの話だっけ。
そうそう、ところどころにイカリ⚓️マークがあって、ここが海軍の施設だということがしっかり刻まれています。
こうして操業していた工廠ですが、戦争末期になると徴用工や学徒動員なども含め、多くの人が働いていたそうです。
1945年8月には56,000人超の働き手がありました。
そうして8月7日、午前10時13分。
124機のB-29によって、実に3256発もの500ポンド爆弾が落とされました。
『500ポンド爆弾』というのは別名『250キロ爆弾』とも言うそうです。
250キロの物体が落ちてくるだけでも大惨事なのに、それが爆発物で、更に3000発超って…
ちょっと想像し得ないですよね。
75年経った今でも、着弾跡がくっきりと残っています。
公園内には防空壕の跡もありましたが、ほとんどただの縦穴で、空襲から身を隠せたのかどうか怪しいものでした。
本当に戦争は1ミリもいいとこないですね。
豊川市は1995年に平和都市宣言をしています。
世代が下るごとに戦争体験が消えていくのは当然なので、こういう施設は大事ですね。
思いがけず見学できて良かったです。