スキャンダラスなまでに斬新なスタイル、



と言われて、一番最初に思い浮かんだのがこの人。


でも、今回の話題は、マイケルじゃありません。


20世紀初頭、ベルリンの知のスーパースター。



ゲオルク・ジンメルさんです。


何気なく手に取った

哲学の歴史〈第9巻〉反哲学と世紀末 19‐20世紀 マルクス・ニーチェ・フロイト/中央公論新社
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に、ジンメルが取り上げられているのに気がつきました。

その、ジンメルの章の最初のタイトルが、

哲学の再来―スキャンダラスまでに斬新なスタイル

・・・なのです。か~っこいい!


ヘーゲルが近代手哲学体系を完成し、ニーチェが「神の死」を宣言した後の19世紀後半のドイツでは、哲学がやれることはもうないと思われていた。生理学や心理学が、「実験」とその「データ」という武器を手に、華やかに活躍しはじめたこの時代、哲学にはもはやなんの期待も出来なかった・・・。


そんな時代のベルリンに、颯爽と登場した知のスーパースターが、ゲオルク・ジンメル、というわけです。


ロダン、アールヌーヴォー、レンブラントが大好きだったというジンメル。わあ、私もレンブラントが好きー。ぐっと身近に感じます。また、イタリアも大好きで、ローマやヴェネツイアについて、ため息の出るほど美しいエッセイを書いているとか。読んでみたい。



『クロニクル社会学』的にいえば、ジンメルの業績は、社会学を一つの「学」として、独自性を確立したこと、特に、それを心的相互作用という形式の研究としたことにある。社会を個人の相互作用としてみることは、ブルーマーのシンボリック相互作用論に引き継がれているし、社交場面を”劇場”としてみるゴフマンのドラマトゥルギーにもその血脈が流れている・・・、ということになる。



じゃあ、心的相互作用の形式の研究って、どんなん?というあたりは、竹内洋先生の『社会学の名著30』でとりあげられる、ジンメルの『社会学』(1908)を見ると、概要がもう少し分かる。面白いのは、例えば、「二人関係」と「三人関係」とでは、起こる力動が全然違う、という看破で、これは小学校の女子生徒の仲良しグループから、国家間の軍事同盟にも共通してみられるんじゃないだろうか。



でも、『哲学の歴史9』でのジンメルさんは、こういう社会学者としての一面だけじゃない顔も見せてくれる。国民経済学が主流だった当時に、消費社会における人間心理を分析した『貨幣の哲学』を書く先駆性。女性蔑視論者ですか!?と言いたくなるような、ドイツの重鎮哲学者さんたちの中で、ジェンダー論をさきがけた軽やかさ。


しかしジンメルさんの神髄は、理論の人ではなく、観察の人だ、というところにあるようである。


(現象を観察し、そう見えるようにしている深層構造を透かし見る、という匠の技を、社会学とした、というふうにも言えるかしら。)


そして、彼の知的感性は、思索的エッセイ、という形でもっとも花開いたらしいのです。



例えば、というわけで『哲学の歴史9』で紹介されているのが、エッセイ『取っ手』。


ある美しい水差しについた取っ手。これは何なのだ、というのがジンメルさんの問い。芸術品なのかしら、日用品なのかしら。そもそも芸術品は、日常世界とは切り離されたものだ。絵画を見ればわかる。日常生活の具体的なものは、いろんな関係の中で成り立ってるのに対し、絵画の中のものは、関係から切り離されて、ぽっかりうかんでいる。触れもしないし、匂いをかぐこともできないし、音を聞くこともできない。


だけど、美しい水差しについた取っ手は、芸術品である水差しから、ぐっと日常生活に身を乗り出して、芸術世界と日常世界を結び付けてくれる。取っ手は、人間の身体的運動と抽象的思考が一体となった瞬間に生み出された、一種独特の媒介物なのである。


・・・とまあ、こんな感じ。



哲学はアリストテレス以来、本質とそうではない事柄の区別をつけようと躍起になってきた。だから、本質って何?と、そりゃ「絶対」とか、「超越」とか、「純粋」とか、「ほんとのほんと!」とか、そんなことばっかり言ってきた。(この辺、どうしてそうなのかは、PAKAPONさんに教えていただいた『現象学入門』を読んで少しわかってきましたが。)


でも、そんなこと捨てちゃえば、橋だって、扉だって、いくらでも思索の対象になるよ!というのがジンメルの主張。



ブルデューも、パリ、という世界の中心から外れたところの出身だったために、マージナルマンとしての社会学を極めた人だったが、ユダヤ人だったジンメルも、ユダヤ人排斥のムードが高まる当時のドイツ社会で、マージナルマンとしての哲学を極めた人だったのですね。