自信というもの | 独断と偏見

独断と偏見

20年前に書いたブログがまだ生きていました。
すでに60歳を超えて老年になり、過去を振り返りつつ思うところを書いてみたいと思います。

 僕たちは、行動しない理由を

 自分に何かが欠けているからだと考える。


 勇気がないから、体力がないから

 学歴がないから、容姿に自信がないから

 うまくしゃべれないから。等々。


 その欠けているものさえ手に入れば

 きっと自分の人生は変わる。

 自信を持って明るい人生を歩んで行ける。

 そう思っている。


 世の中には、そう考える人が多いらしくて

 それを商売のタネにしようと

 様々なコンプレックス商品があふれている。


 何かが自分に足りないから

 不安で自信がない生き方しかできないのだろうか?


 僕は、ヘレンケラーのことを考える。


 彼女は、視力、聴力に欠け

 また言葉もうまくしゃべれなかった。

 でも、

 堂々とした人生を歩んだ。


 自分に欠けていたものを取り戻したのではない。

 相変わらず、視力も聴力も悪いまま。


 僕は、それを考えるとき

 強さや自信とは

 自分を受け入れることから生まれるのだと思う。


 自分の弱さや欠点を

 そういう条件を持ちながら生きる運命なのだと

 受け入れたとき、自信が生まれてくる。


 おそらく彼女は

 自分の運命に絶望したに違いない。

 そういう自分を拒絶したに違いない。

 その絶望を通してこそ自分の運命を

 仕方ないものとして受け入れようと思ったのだろう。


 現在社会は、絶望ができないのではないだろうか。

 もしかしたら、何とかなるかもしれない。

 そう思わせるような情報があふれている。

 そう思う人を狙った商売があふれている。

 でも、結局はお金だけ取られて期待した効果が

 得られない。

 でも、あきらめられないので

 また同じような商品に出費する。


 そういうことを繰り返すから

 いつまでも自分らしい生き方が確立できない。

 自分に与えられた条件で生きるしかないと

 覚悟できないから

 周りの評価や情報に振り回されて

 自分なりの価値観や信念が育たない。


 自信がないのは

 何かが自分に欠けているのではなくて

 その欠けているという条件を受け入れられないから。

 そんな風に思う。


 「人間を変えるものは環境ではなくて

 人間自身の内なる力なのです」


 「頂上への楽な道などない。

 それなら私は自分なりに

 ジグザグに登ればいい」

                   ヘレンケラー