誰しも宇宙はどうやって誕生してのだろう、そもそもなぜ自分は存在しているのだろうか不思議に思うことがある。
人以外の動物や植物はそのようなことは考えないだろうが。
思い起こしてほしい。人は誰しも物ごころがつくと死を意識するようになる。子供の頃に、一度は死んだらどうなるだろうかと思い恐ろしさで眠れなくなった経験がある人は多いだろう。
そして、そもそも宇宙はなぜ存在しているのだろうか、と考えてみるが、答えはなかなか見つからない。1から2は生まれても、0から1が、無から有が生まれる理由がわからないからだ。やがて、大人になるにつれ日々生きることの重要性が増し、その経験は記憶の片隅に追いやられる。
なぜ宇宙は存在しているのか?
かつて、ピタゴラスらが地球は丸いと唱えた時、誰しもが裏側に立っている人はなぜ下に落ちないのだろうかと嘲笑した。しかし、後世に至り、重力の存在が明らかになるにつれ人々は納得するようになった。
森羅万象、地球界に重力が存在するように、宇宙界には0から1が芽生える力が働いている、それも一つではなく、力の差こそあれ、無数に溢れているのではないか。おしなべて宇宙全体に万有引力さながら存在し、無数の1が滾滾と誕生している考えてもあながち間違いとはいえまい。
あるいは、かつてプレ宇宙には、この万有創成力がそこかしこに働いていたと言い換えることもできるかもしれない。 f(0)は1を生むポテンシャルを有している。
0から1ができると主張すると、多くの科学者から嘲笑されるだろう。が、実はわれわれの多くが、物心がついた頃にこれと似た経験をしている。それはすなわち、死の意識や異性への恋心などである。それまで全くなかった感情が、どこからともなく自分自身の感情の中に芽生えてくる。 これらはいったい、どこから湧きあがってきたのだろうか?
自分の」理解できぬものを莫迦にして笑うのは人間のつねである
一Goethe一
さりながら、これら原始宇宙で無数に誕生していた1なる存在が、現在の宇宙に存在する今日われわれが認識しうる1すなわち粒子や宇宙の塵といったようなものと同一であると結論づけるのは注意しなければならない。
むしろ、われわれが1と考える存在の元になった何か、あるいは元の元になった何か(仮に根源1と呼ぶ)である可能性も排除はできない。
さらにいえば、原始宇宙で存在した、その1は、もしかしたら現宇宙には無い可能性だってあると念頭に入れておく必要がある。
光、物質、波動、振動、臭い、味、世界を構成するロゴス(言葉verbumと理念ratio)、空間、あるいはわれわれの五感では知りえぬ別の何かなどを含めて、これらのいずれかの最小単位1(ピタゴラスが今から1500年程前に数と説いたような存在)のさらに元となる根源1ともいうべき存在が無数に生み出されると、それらが摩擦、衝突、合体、あるいは結合のハーモ二ーを繰り返し、気の遠くなるような歳月をかけて変化を遂げ、プレ宇宙で拡大。その過程でビックバンのような現象も少なからず発生させたことは想像に難くない。
かくして宇宙の帳(とばり)はあがり、われわれが知りえる大量の1が示現したと考えるのは、うがった見方だろうか。
とどのつまり科学的には、0から1がうまれることはない。そのような説は否定されてしかるべきである。尤も0から1が、何かが生まれなければ宇宙は存在していない。
ありえないことをすべて排除してしまえば、後に残ったものが
どんなにありそうもないことであっても、真実にほかならない
一Sherlock Holmes一 過去に0から生まれる根源1の如き存在があり、それが現在われわれが目にするところの1へ変化した可能性までは否定できない。