唐武と芸術写真の時代 岩手県立美術館(~2/14)
 
唐武の「丸の内三題」というポスターにも使われている写真から連想するのは、
 
 
「生誕100年! 植田正治のつくりかた」(2014年)でした。
植田正治は1914年生まれ、唐武は1902年、明治35年生まれ。
 
唐武の際立ったセンスが思われます。
 

 

 
このセルフポートレートも体の奥の方(向かって右)はぼけて、
この真摯な表情とまなざしを撮りたかったんだな、と思わせられます。
その視線のむこうにあったものは未来でしょうか。

 

 
この写真なんか、ブラックのキュビスムのような構成ですが、
下の三角定規がうるさいというような批評分もキャプションにあり、
 
その批評はいまでも通じると思いました。本展ではキャプションが非常におもしろかたのですが、
その半分は当時の唐武の言葉や雑誌の批評文であり、
 
あとの半分は写真の技術についての解説でした。
いまでは考えられないアナログな技術で写真の表現を追求していたんだなあと思いました。
 
いまでもカメラの機能だけでいい写真が撮れるわけではなく、撮る人の気持ち、
こういう写真を撮りたいという意思とそれを実現させるための丹念なカメラ設定や工作のような工夫、
人物を撮るにはいちばんの肝はコミュ力だったり、自然を撮るには忍耐力だったりするわけで。
 
すべてはこういう画を撮りたいという強烈なイメージ力ではないでしょうか。
ではそのイメージはどこから湧いてくるのか。

 

 

 

 
季節柄で雪の写真を多く展示したのか、そもそも土地柄で雪の写真が多かったのか、その両方なのか、
今回心惹かれた雪の写真は多く、
 
唐武が雑誌に書いた、雪景色の中の川の流れの煌めきの撮り方も
興味深く、早速やってみたい!と思ったのは私だけではないでしょう。
 
 

 

 
この少女のポーズや背景など、藤井勉さんの少女たちを連想してしまいます。

 

 
かと思えば、こちらは今でいえば、クセの強い青年を撮っています。人を撮るのは難しく、そのひとを
いいと思って撮ろうと思っても、そのいいところがカメラのレンズがあると緊張が生まれ、
思うようには撮れない気がします。
 
ましてやこの青年はだいぶクセが強く、そこをテーマに「拗ね者」という題で撮っているわけで、
難易度が高い。この表情を捉えるまで、どんな会話をし、どんな冗談を口にし、どう口説いたのか。
そこを想像してしばらく見惚れていました。私には絶対撮れないなーと思いながら。
 

 

 
風がびゅうびゅう吹き付け、柳が女の乱れた黒髪のようです。乱れているのは柳ではなく、
乱暴な風なのですが、広重の版画のようにも見えます。柳の背景の空もおもしろい。

 

 
子豚のピンと伸ばした後ろ肢とくるんとカールした尻尾が何とも言えません。
母豚はなすがまま。

 

 
こちらはウサギなのですが、一瞬、クロッカスに見えてしまいました。
ピーターラビットのお母さんが子どもたちになにか言い聞かせているように見えます。
うさぎは寂しがり屋なのでぎゅうぎゅうに集まりやすいのでしょうか。
 
動物もまた思い通りにじっとしてもいないし、いいと思ってカメラを構えれば逃げるし、
(すべて自分の経験です。それともベテランになれば催眠術をかけたように動物たちもいい子になるのでしょうか)
 
辛抱強く待つ、シャッターチャンスを逃さない、それ以外になにか魔法があったのか。
とつい邪心を持ってしまう私です。
 
 

 

 
図録にもあった、唐武のトリックアート的写真。
ほかにもシャボン玉をアレンジした写真など、ユーモアのある写真があり、
そこにも植田正治との共通点を感じます。
 
写真を志すひとには共通してスマートな洒落心といいうか抑えても溢れるユーモアと美意識が
共通する気がします。
 
まだ会期があるので、もう1回見てきたいと思います(市内ですしね)。
ではでは♪