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(ずっと編集状態になっていたことをさきほど発見して、あわててアップする所存)
 
長谷川誠展 二十億光年の扉 もりおか啄木・賢治青春館
 
「二十億光年の扉」にはもちろん、谷川俊太郎が21歳の時に出した処女詩集『二十億光年の孤独』に収められている同タイトルの詩が響いているのですが、
Wikipediaによれば、「二十億光年の孤独」の二十億光年という距離は、当時の谷川の知識の範囲内にある宇宙の直径を意味しているそうです。
 
宇宙の直径ということは、膨張を続ける宇宙の果てが二十億光年ということ(当時)。その二十億光年の宇宙の外が存在するということです。
 
 
 
 
もりおか啄木・賢治青春館は旧第九十銀行、盛岡出身の若き建築家横濱勉による、大正期の洋風建築ですが、
ほど近いところにある旧盛岡銀行、現在岩手銀行赤レンガ館のこってりしたヴィクトリア王朝様式にくらべると、
スッキリしてモダンな印象を受けます。ちなみに竣工はこちらのほうが1年早く、1910年12月竣工。110年前の歴史的建造物ですが、
現代の盛岡のまちに馴染んで歴史的建造物なのに親しみやすい雰囲気になっているのは立地のせいでしょうか。
 
ところでこれから長谷川誠展 二十億光年の扉 へ行く方には
入る前にこの建物のこの入り口を存分に網膜に焼き付けてから入ることをお勧めします。
 
 

 

 

 
私が観に行ったのは1月31日で、雪がどっさりあって、まるでこの展示のために降ったかのようでした。
 
中は撮影禁止ですが、旧九十銀行の中に、そっくりの扉がつけられ、展示室全体がもうひとつの第九十銀行であるかのような仕掛けになっており、扉をあけるとそこには雪山が重量感をもって存在しているのでした。
 
雪山と雪山の上に在ってこちらを凝視している、ある存在がまず目を引きます。
見上げてしばらくその存在と会話してもいいと思います。
 
 
2階のギャラリー全体をすっぽりと旧九十銀行の中に入れて、その中には「二十億光年の扉」(インスタレーション)が詰まっています。長谷川誠さんのここ何年かのインスタレーションで思うのは、与えられた空間いっぱいに雪山がつまっているなあということです。スカスカだったことは一度もなく、森も雪山もみちみちと詰まっている。
 
「二十億光年の扉」の階段を上がって扉をあけると、また降りる階段があります。帰るときはまた階段をあがって降りることになるわけで、この階段の精巧さにも感心してしまいます。
 
旧九十九銀行といううつわのなかに2階の展示室があるのですがその展示室を開けると旧九十九銀行がすっぽり入っている、その扉を開けると(階段を下りることになるのですが)、雪の世界が入っている。という入れ子のインスタレーションは、宇宙の外の宇宙の外の…という宇宙の果てについて考える時の入れ子を連想させ、「二十億光年の扉」とはそういう意味かと勝手に納得します。
 
膨張しつづける宇宙ということは、果てがあるということ。矛盾するようですが。
 
 
 
いまはもう4月になり、今年のあの大量の雪はどこいった、ですが、
長谷川誠の表現してきたもののひとつが記憶の白い光景なので、雪の消えたいま作品に出合いに行くのも
かなりいいタイミングなのではないでしょうか。

 

こちらと関連させて、岩手県立美術館コレクション展で展示されている、「触覚の森ー04」もご覧になるといいと思います。

 

氷に入った罅割れや森の中を歩いた記憶も、自分の中にもある記憶や冷たさなのですが、

それを天井までみちみちとつくられた旧九十九銀行のなかで見るという体験は新しい感覚を呼びよこす気がします。

 

 

 

1階の喫茶「あこがれ」では落ち着いた雰囲気のなかで、南部鉄器で淹れたコーヒーと

盛岡の懐かしい駄菓子をいただけます。

 

 

 

 

 
マントルピースの上には石川啄木と宮澤賢治の大宮政郎の作品が
飾ってあります。
岩手県立美術館で開催中の「第4期展示 特集北異のマグマ 大宮政郎」(~4/25)とも関連して
見ることができます。
 

 

 

 

 

 
「ミリオンカラットの友人たち」のシリーズの作品です。

 

 

 
 

会期終了までわずかになりましたが、もう1回見て、

雪のない時期に見ることで感じるものを感じたいと思います。