高校時代は勉強がまるでできない状態だった。 中学1年の2学期から別人のように成績優秀となったのですが、高校になればふつうにできるひとばっかりなので、付け焼刃の菅原なんかたちまち劣等生ですよ。 しかしほかに興味のある仕事もなかったので司書になるべく公立短大の司書の資格が取れて寮があって安くあがりそうなところ、という理由で選んだ短大には入れました。私は土壇場に強い。 字が汚いと司書になってから利用者に迷惑をかけるかも、というより、採用試験で落とされるかも(じつは字が汚くても試験さえ通れば大丈夫だった)という理由で榊原郁恵さんが宣伝していた東京ボールペン習字を短大1年の夏に少しだけやったおかげで、ひらがなだけはましになりました。 当時からシェアは日ペンの美子ちゃんで有名な日本ペン習字研究会の圧勝(パンメーカーにおける山崎パン圧勝以上のものがある)だったのですが、 自分でもなんでだかよくわからない理由で東京ボールペン習字(たぶん東京書道協会だと思うけどちがうかも)。 なぜひらがなかというと、私が練習したのは1年の夏休みだけで、住み込みで温泉プールのチケット売りの仕事をしながらそこの山のように積んであった『婦人公論』バックナンバーを読むのとボールペン習字の練習以外やることがなかったからです。 ひとりがすきな自分には最適な職場だったなー。アルバイト料もよかったし。ひらがなだけはかなり上達したけど、漢字は「青」とか「山」とか、簡単な字のあたりで終了。通信教育だったのに通信したのは3回でたしか8級だったかな。 その後土壇場に強く、周りが気にならない豪胆のおかげで公務員試験合格。2年になってからはアルバイトを全部やめて1次試験まで全部捨てて試験勉強だけやっていたからです。土壇場に強いしやるときはやる性格。暗記が苦手なので『図書館ハンドブック』をつねに持ち歩いてサブノートを作ったり、読んだり線を引いたり、とにかく暗記暗記暗記。 字が汚いまま司書になって汚い字で書名目録と分類目録と台帳を制作していたのですが、私が司書をやめてしばらくしたら世の中にわっとパソコンが現れ、司書の仕事もいまは楽になっただろうなあと思っていたら、ほぼパートとか派遣ということになっているらしいです。 じゃあ短大時代ボールペン習字なんかやらなくてもよかったじゃん。とは思わない。字を書く機会はいまでもけっこうあるからです。 字は生まれつきの要素が多いので私の字がいまから別人のように変わることはないわけですが、それこそ、一等賞になれなくていい、ってきもち。 ただ、なにかをいまより少しでもましにしようとする瞬間が大切で振り返って楽しい時間なんだと思います。 コロナ自粛のいまはまるであの狭い個室に一日いてチケットを売っていた私の状況のようです。私は『婦人公論』とボールペン習字の練習だけでけっこう充足していて、スマホなんかなかったけれど、その充足は忘れられない。 というわけであれから38年経ったいまの私を支えているのは当時の充足感。報われるとか報われないとか、そんなことはどうでもよく、なにかに熱中することはただただ楽しい。 ではでは♪