image

 

『ダンシング・マザー』内田春菊(文藝春秋)

 

20代のはじめから内田春菊さんのマンガとエッセイのファンだった。『物陰に足拍子』がいちばんすきだった。タイトルと言い、主人公の少女の黒髪の重たい感じと、兄と義姉の絡みつく視線や彼女の自由を許さない感じが厭でそこがすきだった。内田春菊さんのマンガを読むと、自分では厭だと言えないし、厭だと主張していいことだと知らなかったことを、厭だと言っていい、と気づかされることが多かった。

 

まーしかし小説はマンガほどのインパクトは与えられなかった。『ファザーファッカー』は映画にもなったと思うけど、これをマンガにしていたらと思った。でも本人にしたらそれだけはできないことだったと思う。

 

『ダンシング・マザー』の中のエピソードは『ファザー・ファッカー』の中に登場したものと当然だが重なる。おなじエピソードを前作では娘静子の目から見た光景として描いていたけれど、本作では、義父の理不尽な性的虐待や性暴力、モラハラ、妄言を受ける娘を、ずっと、娘の方が自分より賢いと思う一方で、この子の賢さや才能は自分譲り、と思う身勝手な母親の視点、を、その賢い娘が想像して描いている。そう取れてしまうのだ。

 

自分を見殺しにして義父の生贄にした母親だという気持ち一色ではなく、どこまでいってもやはり母に愛されていたかった娘の目から見た母親視点なんだと思う。痛ましいことのように思ったけれど、それはもしかしたら、作者に女の子ができたせいかもしれないとも思う。

 

『ファザー・ファッカー』では勝手なルールを強いて教育熱心な親を気取るくせに、義理の娘が小学校高学年から性的接触を繰り返す義父はモンスターの感じだった。

 

母親の視点で描かれたこちらでは、義父の滑稽なところが強調されている。母親の目には素敵な頼れる愛人ではなかったのか。滑稽に見えていたのは娘の静子の目には、ではなかったのか。

 

現実はもしかしたら静子が考えているよりもっと残酷なもののような気がする。母親は問われたら自分はなにひとつ悪くない、悪いのは素直にお父様のいうことを聞かない静子だと本気でいうのかもしれない。

 

きょう、「目黒女児虐待死判決」の判決が決まった。

私はずっと、この雄大被告が「ファザー・ファッカー」の義父に重なるように思えていた。性的虐待があったかもしれないということではなく、

 

教育熱心な親、しつけに厳しい親、理想の子ども、という自分の中でつくった妄想を子ども(義理の子ども)に押し付け押しつぶすやり方がそっくりだと思ったのだ。

 

結愛ちゃんが押し付けられたルールはまったく理解に苦しむものばかりだった。漢字や九九の先取りをして、小学校で成績優秀になり人気者になるとか、体重を減らしてモデル体型になれとか。

 

自分より力のないものにルールを押し付けやらせることに性的快感に近い、常習性の快感があったのじゃないかと思うのである。

 

静子が義父にやられているのを見て見ぬふり、ではなく、嫌々ながらでもご機嫌を損ねたくないあまり、毎月セッティングする母親と、自分の娘が骨と皮になって傷だらけになっているのを知りながら、なにもせず、「機嫌を損ねないため」一緒に悪口を言う母親は重なる。

 

男の「機嫌を損ねたくない」ために生贄の娘を差し出すという構図は同じだと思う。静子は年齢が上だったからj辛くも逃げ出して助かったが、逃げる力のない5歳の少女は殺されてしまった。

 

結愛ちゃんに対して雄大被告が行っていた、

「朝4時起きで書き取り」「時計の読み方」「九九」の先取り学習、

モデル体型になれ、という言葉の不気味さというかグロテスクさは、

 

静子は東大に入れ、東大を出たら俺の子どもを産ませて秘書にする、という義父の言葉に妙に重なる気がする。

 

このふたつの義理の娘への虐待を重ねるのはおかしいだろうか。

 

自分より弱いものに教育を理由に虐待を加えるのは醜く卑怯なことだと思う。それを見て見ぬふりをすることも。