ヒマな時はもっぱら 居眠り 読書 洗い物 掃除 のいずれかに従事している私ですが、きょう片づけ方をしていたらビックコミック2018年6.25号を発見。ってずっとそこにあることは知っていたのですが、久しぶりに山岸凉子「時計草」を読みました。
こちらはきょうのうちの子。相変わらず蟻が寄ってきて蜜に溺れております。
「時計草」には英名 passion flower の名前があり、passion=受難 でキリストの受難から、
聖なる愛 無償の愛 などの花言葉があるようです。
「時計草」は主人公が自分では知らない間に彼岸にいて、さまざまな奇妙な出来事や人と出会うという点で「化野の…」に似ています。
この主人公は死んだということを受け入れられないのですが、この謎の水先案内人が、
思っていたような天国ではないとあまりに平凡で現実と代わり映えしない上に殺風景な公園について愚痴ると、
あなたは“そこそこ”でしたからね
と言うんですね。
結婚せず子どもも育てず、無償の愛を与える機会もなかった、というセリフは、この時代ですから引っかかるものがあるのですが、
山岸先生はかなり初期から壊れた家族や子どもへの虐待(暴力も教育虐待も性虐待も)を描いている方なので、そこはわかっていて敢えてこう言わせたのだと思います。つまりこの女性は真に生きていなかったと。
「化野の…」では歌一筋に生きてきた女性が石の上を歩いていて、私は家庭も子どもも持たないで好きなことだけやっていたからと微笑むのですが、
あの女性と似ているようで違う。
この主人公はなんとなく楽な生き方を選んできた、だからいま天国よりも地獄よりも居心地の悪い「退屈」にいるのだと思う。
このコマ、すごいなあ。空間がないということを象徴する絵、この発想。
この最後のコマが初めて読んだ時はただスッと読んでしまったのですが、きょうはそうだよな、すべて繋がっていくんだよなと思えました。
山岸先生は私の小学校時代に「アラベスク」、高校時代には「日出処の天子」を連載されていて、伝説的な人と思っていたのですが、
対談やインタビューなどで自分の体験が基になった作品があったことを知り、あー、山岸先生も人間なんだなーと思い、
その後も作品を読み続けていて、方向は違うのですが「白眼子」や「テレプシコーラ」にある、幼い少女への慈しみや育む愛に山岸先生は大人になられたと感銘を受けるのでした。
人にはいいところも悪いところもある、当たり前のことだけど、大きな物語の中にそこを描いているのが素敵だなーと。
「時計草」は短いマンガだったので主人公は救われませんが、時間をおいて読んでまた違うふうに受け取れるというのが山岸先生のマンガの良さだと感じました。
ではでは♪



