没後100年 村山槐多展ー驚きの新発見作品を一挙公開ー サントミューゼ上田市立美術館

第1期 7/27〜8/12
第2期 8/14〜9/1
火曜休館 9:00〜17:00

結局1期2期を2週通って見てしまった菅原です。本業はパン屋だしサイドビジネスの大食いにも関係ないのに!でも行ってよかった!

もし長野県か〜遠いな〜と諦めていたら槐多もだけど、日本劇作家大会上田大会のことも知らないままだったし(そもそもあっしには係わりのないことでやんすと思っているからアンテナに引っかからないのだが)、

よかった。

槐多と現代演劇は全然関係ないようだけど、高村光太郎がひとつのチェーンになって、渡辺えりさんの講演にも、槐多展にもどーんと登場するのである。


村山槐多は22歳5ヶ月で病死したんだけど、14歳から死の直前まで制作したデッサン、水彩、パステル、油画の膨大さ。加えて彼は詩もラブレターも日記も江戸川乱歩に影響を与えたという推理小説も書く。谷崎潤一郎も推理小説を書いていて、江戸川乱歩が意識していたのは谷崎潤一郎だったというのは有名な話(だと私は思っているのですがどうなんだろう)、年齢は谷崎潤一郎が1886年生まれで槐多が1896年でちょうど10歳違う。

美少年も美少女もおばさんも悪魔も好きという点で谷崎潤一郎と気が合いそうなのだが、年譜には谷崎潤一郎との接点は見出せず。

上の自画像は、首のところから脾臓などが鉛筆で描かれているのだけれど上下をひっくり返すと木の梢になっているそうだ。なぜ!




図録は絵も槐多の文学作品も超ボリューミーな分厚さの中に収録していて、この図録そのものが槐多だわと言いたいくらい。

ただやっぱり図録では槐多のぎらぎらする自画像は色が出せないようで、実物はもっと激しく色彩も深い。


村山槐多については関根正二と並んで夭逝の天才少年画家と思っていたに過ぎない。自画像と国立近代美術館や大原美術館の代表作を見たことがあるくらい、谷口ジローの「『坊っちゃん』の時代」では山本鼎をおじさんと呼び(従兄弟とはいえ14歳上なので自然かも)、いかにも才気煥発な少年としてサッと出てくるが、そのくらいであまり知らなかった。


ちなみにこちらが青年村山槐多。槐多という名前は森鷗外がつけたという。何かこのまま現代にいても不思議はない雰囲気がある。写真に撮られるのが上手いんじゃないかな。


この紙風船を被った自画像は、このピンクの表紙の小冊子とともに、あちこちのキャプションにも使われていた。

「みんなよく来てくれた。
オレが天才、村山槐多だ!

どうして紙風船を被っているのかって?
これはオレの美しい心を
まもるための兜なんだ」

(だいたいこんな意味と調子)

そのほかのキャプションもダジャレを多用し、クスッと笑わせられる。なぜこんなキャプションなのかなあと思って聞いたら、

槐多展の巡回館であるおかざき世界子ども美術博物館とサントミューゼ上田市立美術館の学芸員さんが子どもに親しみやすいように考えられたということだった。

おかざき世界子ども〜はもちろんサントミューゼ上田市立美術館には子どもアトリエがあり、展覧会スケジュールも子どもたちへのまなざしを感じる構成だった。


子どもからしても22歳のお兄ちゃんで天才という槐多のキャラクターは親しみやすい…とはいえ同時上映じゃない、同時開催が「ミライの未来」で、夏休みの子どもはそっちに行くんじゃないかなあ。槐多展は平均年齢高めだった。


冊子の中には「まんがで読む村山槐多」が。大河内由香里さんの作品で、思わず吹き出すエピソードだがすべて実話です。



今回村山槐多の14歳頃のパステル画(安定剤に家具に塗る樹脂剤を独自に使っていたそうで、その画材への研究心がすでにここからあったのかというのも驚きだった)をまとめて見て、もともと絵がずば抜けて描ける子だったんだなあと。


子ども時代は京都に住んでいたので、寺院や庭を繰り返し描き、いくつもの習作ののちにひとつの作品にして、周到な準備をしてひとつのモチーフに向き合っているというのが新鮮だった。


この時期の絵ではこれが一番好き。

蝉の声が聞こえてきそうな空気感。二人の子どものポーズの自然さ、構図のおもしろさ。



そして夭逝の天才画家については偏見があって、槐多の裸婦デッサンの数々、特にこの方向からの「横たわる裸婦」は絵が全然描けない自分にも凄いと思わせられた。


別の意味でずば抜けた作品。

どう見たって週刊モーニング新人賞受賞でちばてつや先生激賞でデビュー、
賛否両論の問題作、そんな現代の雰囲気をまとっている。この絵もすごく気に入ってしまった。


目の描き方!!

村山槐多が美少年に送ったラブレター(美少女にもおばさん〈と呼んでいるのだ〉にも送っている。美しいものなら人でも花でも風景でも好きなのだ)も、字がいまの人の字みたいでびっくりしたけど、感覚が大正からいきなり昭和平成の感じ。




図録をスマホで撮ると全然伝わらないけど、これは「日曜の遊び」(181.4×234.0cm)。

発見された時は槐多の絵だと言われていたんだけどその後山本鼎による下絵が出てきて、大作も鼎じゃないかということになり、その後の調査によって、


下絵は山本鼎が、その下絵を基にして大きな作品に描いたのはやはり村山槐多だった、と結論づけられている。



他の絵でもそうだけど、槐多の森や湖や海、自然界の青と緑が瑞々しくて好きだなあと思う。

村山槐多についてはそんなに好きというわけではなかったのに、この展覧会についてはいくらでも語れる笑。

福島県立美術館の関根正二展、東京ステーションギャラリーの岸田劉生展と相互に関連する展覧会が続くので、それもあわせて見られたらうれしい。

ではでは♪