こんにちは!

今週はカーブスがないので浮いた時間でリビングの掃除…のつもりが脱線中。

『松本かつぢ 昭和の可愛い!をつくったイラストレーター』(河出書房新社 2006年)はだいぶ前に買って何度も読み返しいるのですが、

今回発見したことが。






余談ですが田辺聖子さんの『欲しがりません勝つまでは』には田辺さんの13から17までの少女期と重なる太平洋戦争が描かれている。戦争中でも松本かつぢのレターセットを集めたり、友達とおしゃべりしたり、少女小説を書いたりしていたのだが、やがて大阪空襲が大切な本も家も奪ってしまった。

その中にあったかつぢのレターセットはこういう感じだったんだなと40年を経てしみじみする。

松本かつぢの略年譜に「戦争中は理研科学映画に映画部長として迎えられる」とある。


32Pには「戦時中は理研科学映画に映画部長として勤務し、実際にアニメ映画も作成しています(残念ながらこの作品は空襲で焼失)と。手塚治虫と一緒にアニメーションを作る計画も後年あったという。




こちらは松本竣介。1941ごろの自画像です。

『池袋モンパルナス ようこそ アトリエ村へ!』の池袋モンパルナス展関連年表によれば、

1944年2月、 理研科学映画社(豊島区西巣鴨)に勤務とあります。

また松本かつぢに戻れば、

「会社が銀座から大船に移ると出社しない日が目立ったという」

とあり、

長年の疑問が氷解!

なんで竣介は戦時中で他に仕事がなかったのかもしれないけど、横浜まで片道2時間もかけて出勤していたんだろう?と思っていたのですが、会社が移転したのか。

松本かつぢと竣介が同じ会社の動画部門で働いていた(かつぢが上司。ちなみにかつぢは1904年生まれ竣介は1912年生まれ)。

すごい。

松本かつぢは年齢的に徴兵されなかったんだけど、愛国心から志願したところ扁平足でダメだったという。

松本竣介は少年時代に流行性髄膜炎に罹患し高熱が元で失聴し、徴兵されなかった。

私の祖父は1912年生まれで高等小学校時代(いまの中1、2?)北上川で毎日泳いでいて中耳炎を拗らせて失聴しもちろん兵役にはつかず、代わりに三鷹の中島飛行場で板金工の腕をふるっていたようだ。本人からは一切聞いたことがないのですべて伝聞です。母が三鷹の工場と言っていたから中島飛行機武蔵製作所のようだ。

しかし耳が聞こえないからといって一家5人で岩手から上京し板金の仕事を祖父はするといっても、何もわざわざといまの私は思ってしまう。岩手でできる仕事もあったんじゃないか。耳が聞こえないというハンデがあると戦時中は仕事もなかったのかな。

松本かつぢと松本竣介が理研科学映画で動画や科学映画を製作していたということを知って驚くとともに、その時制作された動画はなんだったのか、かつぢは当時からディズニーをよく知っていたそうだけど戦時中だしね、

とまた謎は深まるのであった。

横浜大空襲は、1945年5月29日の昼間にアメリカ軍によって横浜市中心地域に対して行われた。

松本竣介の「Y市の橋」は4枚描かれているけれど(絵として仕上がったものは)、京都国立博物館に所蔵の一枚は最も大きく、真っ赤に焼け落ちる橋の絵だった。