『彼女は頭が悪いから』姫野カオルコ(文藝春秋)2018年

ネットのレビューでは後味が悪い、という意見が多かったけれど、

そうかなあ。

全然違うけれど三島由紀夫の『宴のあと』を借りた時だったか返却の特だったか、司書の先生と漢文の先生にモデル小説として発表当時ずいぶん騒がれたという話を聞いた。高校生の私には三島由紀夫の割腹自殺だって伝説というか歴史上の出来事というか、小説そのものとは関係がなかった。

私はこの小説のモデルとなった東大生による女子大生への「強制わいせつ事件」についてあまり詳しく知らない。作者姫野カオルコさんはこの事件の傍聴に通って小説を書いた。傍聴に通ったと聞いて、じゃあこの小説はほんとうにあった事を書いているはずだ、と考える人が多いことが不思議でならない。


『リアル・シンデレラ』姫野カオルコ(光文社文庫)、2012年。

こちらもきょう一緒に届いたのでどちらから読もうか一緒に読もう、と読んでしまったのですが、

「『リアル・シンデレラ』はファンタジックなアレゴリーである」というタイトルで姫野嘉兵衛(カオルコ)名義のあとがきに、

「シンデレラ」は「幸福」の寓意として扱いました。ところが、〈童話シンデレラ〉のストーリーに頑なまでにこだわる直木賞選評があり、かかる固執を予想だにしなかった私は、正直言ってびっくりしました。

とあり、

『彼女は頭が悪いから』のカバー装画は童話のワンシーンのようなジョン・エヴァント・ミレイの「木こりの娘」ですが、

やはり実際にあった事件と作品をイコールで見てほしくない、ひとつのアレゴリーとして読んでほしいという意味だったのではないでしょうか。

主人公であり、事件の被害者である美咲を唯一慰め、盾になってくれた三浦紀子教授のような存在が実際の事件ではいたのだろうか。

高校時代の美咲を爽やかに褒めて、自分の冴えない思い出まで親しく語って去っていった臨時教諭の青年、彼もいただろうか。

美咲が憧れ、ひどく裏切られ傷つけられた東大生の彼の名前はつばさ君だ。つばさと美咲。

「キャプテン翼」の翼と岬を連想するのが自然ではないでしょうか。姫野カオルコさんには『ガラスの仮面の告白』という作品もありますし。

これは実際にあった事件をそのまま書こうとした作品ではなく、事件の型を借りて描きたいことがあった、ということではないかと。

事件の後、家にこもって他人に傷つけられることに怯えていた美咲に、彼女が通っていた大学の三浦教授から電話があり、公園で会う場面が印象的です。

誰もが、

レイプされたわけではないのね、と確認して美咲の気持ちを見ずにただ?「非レイプ」のスタンプを押すような扱いをする中で、三浦紀子教授だけが、

「神立さんがどれだけいやな気持ちだったか、私は他人ですから完全にはわかりません。ただ察することしかできません。でも、どうか元気を出して」と大声をあげて泣く美咲にタオルを出す。

また、自分の息子が馬鹿な女の子のために事件に巻き込まれて可哀想と信じる母親からの、美咲に会わせなさいという執拗な電話には、

(美咲が通う大学の教授にそんなことをいいたてる母親もすごいが)

自分が美咲がされたことを、息子を含む5人の前でされたらどう思うかという言葉の刃を突きつける。


歪んだ欲望というか自分より劣る生き物を思い切り笑いたいという欲望はどこからくるものなのか。

物語の終わり、つばさはこれといった罰も受けずに、美咲が泣いた理由もわからない。そこで物語は閉じられる。

美咲はこのあと復学できたのか。つばさはこのあとも何事もなかったかのように生きて、たまに、なぜあの子はただの飲み会で泣き出したのかなあとふと思い出すのだろうか。

つばさ達のような人ははたしかにいる。自分より劣っているものは笑い者にしていいのだと無邪気に考え、実行する人間は「東大生」ではなくてもいる。「東大生」も「つばさ」も「美咲」もアレゴリーであり、そのためどんなに高校時代の彼らを書き込んでも、エジプトの壁画のような薄さを感じてしまう。

現実らしく、またはプロローグの言葉を借りれば、いやらしく肉付けすることを潔しとはしなかったのかもしれない。

傷つけられふるえている魂に手を差し伸べる三浦教授は、

ファンタジーを例えに出すなら、悪い仙女の呪いで紡錘に傷つけられ死んだ姫を、死の代わりに百年の眠りに上書きして救った仙女のような存在に思える。