『ペコロスの母の玉手箱』岡野雄一(朝日新聞出版)
舞台「ペコロスの母に会いに行く」を見に行った時に物販で買ったのですが、買うか買わないか迷ったら本は買うことにしています。ほかのものは迷ったらやめて吉なんですけどね。似合わない服とか踵のある靴(もうとことん足がランニングシューズ以外ダメなので父の葬儀も納骨もアシックスだった)とかピアスとか。
本は買ってしばらく寝かせても痛まないし流行遅れもないからね。こっちが太ってもやせても風邪を引いても関係なく読める。まことに有難い。
今朝胡蝶蘭の花が咲きはじめたところだったので、ペコロスの母=作者岡野雄一さんのお母様みつえさんのお骨のこの描写は刺さりました。
「驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ」(〜12/3 三井記念美術館)でみた、
「Origin as a human 」高橋賢吾 (金工)を連想してしまいます。花は人の人生の儚さと棺桶に敷き詰められる生花を思わせるせいか、花と髑髏の組み合わせには違和は感じません。
アルミニウムで一つ一つつくられた花の髑髏はみつめると気の遠くなるようですが、カバーを外した表紙に書かれた「想い出がパラシュート」のこの一コマにたどり着くまでのみつえさんの一生も儚くも長い長い時間の流れではなかったでしょうか。
カバーの折り返しにもマンガが描かれているので、本はカバーも帯も含めて作品になっているんだなーと。
「ペコロスの母に会いに行く」でも、認知症で幼い日と現在、作者の岡野さんが子どもだった頃の父サトルとの日々とみつえさんは記憶の中を自由に行き来しますが、
この巻ではみつえさんからすると夫のサトルさんが晩年の姿で赤子に返ったみつえさんを抱いている絵が特に印象的です。
このコマの抒情がすきです。見ていると切なくもなるのですが、なんてうつくしい終末だろうと思うのです。
民話の「若返りの水」は、欲張ったおばあさんが若返りの水を浴びすぎて赤ん坊になって、ほどよく青年まで戻ったおじいさんに抱っこされるところでおしまいですが、
あの民話は欲をかくといいことはないぞという教訓ですが、いまの時代ではふえている老老介護の姿にも思えます。
亡くなる1年前から胃ろうをしていたそうです。うちの母も胃ろうでした。ミトコンドリア症でも重篤な症例だったので、口を開いて食物を咀嚼し嚥下する一切が不可能になり、頬骨が三角に尖って出ていました。
認知症ではなかったので胃ろうは本人の意思で手術したわけですが、それでもはたの家族は、それでよかったのかと思うことはありました。亡くなって十三回忌も終わったいまになって考えることもあります。
父は晩年認知症だったのですが、進行して口から食べ物がうまく摂れ亡くなった時、胃ろうの提案があったそうです。
母の時のこともあり、胃ろうはつけないことにしたと弟が電話してきたのは今年の1、2月だったと思いますが、それから2、3ヶ月で父は老衰でなくなり、穏やかな陽だまりの中にいるような最後でよかったなと思いました。胃ろうをつけた場合、馴染んだホームを移らなければいけない話だったのです。
サトルさんは若い頃ひどい酒乱で、「ペコロスの母に会いに行く」ではサトルさんの酒癖の悪さに泣かされる若い日のみつえさんがよく描かれていたのですが、うちの父も酒乱だったので、なにかと共感しながら読んでしまいます。
父が認知症の初期症状で怒りっぽくなった時も、私が子どもの頃はそんな感じの父だったのであまり気にしていませんでしたが、
怒りっぽい時期の次にはひとりでできることがどんどん減って、冬に駐車場からあるくとき、凍ったアスファルトが怖く、私に捕まって恐る恐る歩く父が幼児のように感じられ、
そういえばよくこちらの顔をじっと見ていたなと思い出しました。
ノンブルは189Pまでですが、約200Pの厚みよりずっと読みごたえがあり、
ひとの一生は儚いけれど、その中に無限に近い思い出や愛情や出会いがあるということをしみじみと感じさせてくれます。