この間もやった気がするが、振り返ってみよう!

私にとって未来とは過去を振り返ることなのだ。

 

2006年9月 盛岡市の全日本わんこそば選手権にFaxでエントリーする。当時私は投稿・公募が趣味をかねた実益だったので、その一環(?)。

 

11月11日 全日本わんこそば選手権まんまと準優勝。女性トップ。歴代女性トップ。ということで準優勝と女性トップ賞、ダブル受賞である。女で得した!と思った。大食いの世界にいると女であることはお得だと感じることが多いです。男性選手のみなさん、ごめんなさい。

 

その後大食いスカウト会社から連絡があり、大食い王北海道予選へ。なぜか優勝。この頃はなぜ私が優勝するんだろう?と謎であった。ドッキリテレビか?と疑いつづける。すまん。でもそれがふつーのひとの反応ですよ。

 

12月23日 新人戦東京本戦、優勝。ぱちぱちぱち。正司優子と相識る。彼女は準優勝だった。

 

2007年2月 春の女王戦2回戦敗退。まあ私なんてこんなもんですよ、とホッとする。

3月 ぼちぼち海外組が帰ってきただろうか、というあたりで三宅さんに電話する。このとき、自分からかけ直してくれて、なんていいひとだ!と思う。三宅さんは準優勝だった。

 

2007年8月 なにが起こったのかわからないが、あれよあれよというまに、大食い王男女混合戦、海外まで行くことになってしまう。勝っている人はいばっていいんです!と言われる。

バリで財布を盗まれるが、それが厄落としになったのか、4回戦で3位に躍り出る。女性ではトップである。びっくりしちゃうね!準決勝で負ける。やっぱり私の実力なんてまだまだこんなもんだ、と納得する。

 

2008年3月 女王戦圧倒的な強さで優勝。って自分で言うか。でも決勝のラーメン、私が20、正司さんと宮西さん15杯ですよ。圧勝。完膚なきまで。このときは、

 

やれるだけやったので悔いはない。

 

 

と思った。努力はかならず裏切るが、自分が努力したことを自分だけは見ているから、ズルや怠けたら、私が私を見限るだろうと思う。私だけは私を裏切ってはならない。そんな考え方をするようになっていた。

 

9月 男女混合戦3位。2007年に白田さん最後の試合をみて、今回射手矢さん最後の試合を見られて、しかも今度は決勝の席に私はいた、という自分の成長をいまはすごいと思う。でも当時は、

 

頑張れなかった自分が悔しい!

 

でした。このくらいだから、こうだろう、と相手を計算でいなせると思っていたのがすべての間違い。謙虚さを取り戻す。そりゃそーだ。

 

2009年3月 女王戦2連覇。すでに手が付けられない強さになっており、多方面に波紋が広がっていたもよう。かといって男女混合戦で対等に戦えるレベルでもない。自分が悪いんだが、ほんとうにこういうの困る。ひとりで戦うのは寂しい。ライバルがいないと燃えられない。圧勝する楽しみというものはあるんだけど、対等か自分よりつよいライバルに会って成長したい。大食いをしているんじゃなくて、自分を成長させる旅をしているんです。

 

だから孤独な6連覇を成し遂げた小林尊さんを尊敬せずにいられない。

 

2009年10月 9月の男女混合戦辞退はもはやどーでもよくなるようなことがリアルライフで起こった。私はほかの選手より20歳も上なので、ほかのひとたちが想像もしないような、でもよくあることがちょくちょくやってくるのである。しかし、実人生での戦いが、大食いでの戦いを乗り越えさせてくれるということもあるんである。

 

2010年3月 女王戦3連覇。しかしどうでもいい。負けたらどうでもよくないが、勝って大感激というものでもなかった。正司さんはまさかの敗者復活戦で負けるし、三宅さんは1回戦敗退である。なんでよ!寂しいよ!しかし寂しいというわりにハナウマベイまでトロリーバスでひとり向かって、海で遊んでずぶぬれになって帰ってきたのは私です。

 

11月 ずっとお世話になっていた長野のリフォーム会社マキノさんのイベントで、占いの人に、あなたが買おうとしている物件は買いですよ!と背中を押される。そうかやっぱりそうか。自分で決めていてもひとに後押しされたいものなのだ。

 

2011年2月28日 休めないレストランの厨房スタッフ(私以外はシェフひとりなので、交代してもらう当てがない)なので、週に1度の休みで引っ越しをする。家の中が段ボールだらけでも翌日は仕事である。まあおいおい片づけていけばいいさと思った。

テレビは狭いアパートでは邪魔だし息子が寝ないので3年間みなかった。落ち着いてから買おうと思って、ある程度まとまったお金を持っていた。

 

3月11日 東日本大震災。こわい。電信柱がコンニャクのように揺れているのを見たときは終わりだと思った。大げさに思えるかもしれないがほんとうにそうだったんです。

 

停電。ガソリン不足。ガスが使えない。でも市内だったので、わりに早く復旧した。復旧してから街中の写真ニュースで岩手沿岸の惨状を知った。

 

務めていたレストランがワンコインランチをすることになった。ものすごくいい材料をつかっている昔ながらのカレーライスやハッシュドビーフが500円。私はレストランの厨房のまえは飲食店ホールだったので、ここではじめてシェフに見直される。ひとには得意・不得意ってあるなあと知った。

 

食料は相変わらず手に入りにくかったが、当時からパンを趣味で大量に焼いていたので、職場にもっていく。パンもあまり手に入らない頃だったので、喜ばれる。物不足で喜ばれていただけかもしれないが、私のつくったパンはひとを喜ばせる、ということがいまのパン屋さんへの道へつながっていくのでしょうか。

 

いやでもそのもっともっと前からアパートでもパンは焼いていたんでした。

 

どこから…と思うと、やっぱり祖父がパン屋をやっていたからじゃないでしょうか。母が父と見合い結婚する1年前に火事を起こして店をたたんだそうですが、祖父は朝は当然のようにパンだったし、晩年は3食パンでもかまわない域に達していたようだ。明治45年生まれだが、ハイカラ好きだったんでしょうか。私は低血圧で朝、炊き立てのごはんをたべるのが苦手だったので、祖父とパンの全面耳(食パンの両側のアレです)トーストにマーガリンを塗って、スキムミルクでたべていた。いま思うとそれは貧乏だったのかと言われそうだが、パンの耳トーストがすきだった。マヨネーズを塗って、薄切りのキュウリを乗せてたべるのもすきだった。パンの余熱でキュウリにちょっとだけ火が通る、絶妙な食感と香りがまたたまらん。

 

2011年暮れ 母がなにしろ国指定の難病で死んだので、母系遺伝の病気だし、私もなってるかも!と楳図かずおの『おろち』の中の謎の遺伝病を恐れる姉妹状態。確かめられないから余計にゼツボーするのである。絶望のあまり欝っぽくなり昼夜逆転するし、体は重くなりすべてがどーでもよくなる。

 

2012年2月 しかし人間、いつまでも地べたに座り込んでもいられないもので、ランニングをし始める。10kmのレースに出られたらいいな、と思っていたが、

 

2013年2月東京マラソン完走。タイムは5時間を切れなかったが、いま思えば練習のし過ぎで体を痛めていた気がする。でもそれを無駄だったとは思わない。

 

秋に10日間のインターバルで、大阪マラソン、下関海響マラソンに出る。5時間を切る。

ちなみにマラソンというときは当然フルのことです。

 

そのふたつのマラソンの間に関西テレビマルコポロリ!から久しぶりに大食い話がくる。回転ずしである。100皿?大丈夫でしょ、と引き受けたら、ラーメンはでるわ、どんぶりものはくるわ、びっくりである。でもなんとかやり遂げる。プロだからね!ちなみに賞金として10万円商品券もいただきまして、しばらくの間豪遊しました。

 

言い忘れていたが、父の認知症が5月から発覚して、盛岡と水沢を行き来していました。

 

大食いをしてマラソンをして、認知症の父のために介護関係のひとと打ち合わせしたり病院に付き添ったり自分でも自分をよく見失って困った。

さらに息子も発達障害(ADHD)なので、油断禁物である。さらに小学5年生の親として特学代表委員(そんな名前だった)としてやたら学校に通うことに…

 

このとき強く思ったのは、定職を持っていないといいように使われるなーである。

 

学校のことも父のことも、私が定職を持っていたら、ほかのひとが少しは肩代わりしてくれたのではないか。

 

早いとこ定職を持たなければ!と思った。とりあえず父のことが落ち着いたら…

 

2014年3月 1年間のクラス代表委員の仕事が終わった!その日に父が高熱を出して病院に運ばれた、という電話がデイケアからくる。なんてタイミング。ホッとするのが罪なのかと思った。病院に駆けつける。弟に電話する。弟も父が寒い岩手にひとりでいることに数年前から危惧していたらしい。

 

この事件のあと、父が退院してから弟一家が暮らす町の施設に父は入ることができた。よかった。会いに行ったら、あんなにガサガサだった手がしっとりすべすべになっていてびっくりする。私が乾燥肌なのは父の遺伝だと言われていたが、乾燥肌は環境の問題だったのでは…。

 

4月 息子は6年生になった。5年生でいちばん大変な係を引き受けたので6年生はPTAしごとは隠居のはずだったが、卒業対策委員になる。なりたいわけじゃないが、私だけが定職についていないので仕方がない。くそー、はやく仕事をしたいよー!

 

しかし実家を更地にする問題がまた私の肩に…。更地になるまでもいろいろあったし、なってからもいろいろあったが、すべて終わった。

 

しかしなんだかんだ疲弊したのか、そのとき実家から持って帰った段ボール60箱くらいの本は放置のままだった。空き家じゃないんですか!と10回くらい面と向かって言われたことがある。失礼な!と思うが、いくら朝顔ネットを育てていても、段ボールの要塞みたいな縁側を見ればそう思うのかも。しかし失礼だなー。

 

3月 台湾に招聘される。もちろん大食いで、である。台湾のひとは優しくて微笑みがたえなくて、「ともだち」という日本語を大切につかってくれた。思い出すと涙が出そうである。帰国後、最終日の「KANO-19311931海の向こうの甲子園」を見に行く。3時間の映画なのに長いと思わなかった。映画と自分があった台湾の人やテレビ番組のロケと映画が重なって大感動である。

 

4月 小学校入学時の苦労に比べたら、担任の先生のお力もあって、希望の中学に入れて夢のようである。学校生活も順調だ。さあ、今年だ!やるわ!

 

と思った矢先、6月下旬、世界戦打診がある。本格的な依頼じゃないので、ぽしゃってもいいように本気にしないでおく。

 

9月シドニーマラソン(ハーフ)から帰ったら、やっぱり本格的な出演依頼がやってきた。あああああ。迷ったが、自分より強い相手とやれる機会がやってきたのだ。これは神様がくれたチャンス!と前向きに考える。ひさしぶりにパスポートを3月につかったら、今年は3度目の海外になるんだなーと驚く。私の人生で1年に3回海外なんて夢のようである。

 

10月下旬 なにを隠そう、点訳を勉強するならいましかない、と5月から点訳の勉強をしており、その中間試験を追試にしてもらうことにして、世界戦に飛び立つ。

 

11月上旬 モリーはナイスな相手だった。私がもう少し若かったら、彼女のためにもっといい試合をできたかもしれないと思うとそれが申し訳ない。でも私はそのときそのときで全力を尽くしてきたので、その時の自分を尊敬している。いつも。

 

帰国後、三宅さんと正司さんとオールで遊ぶ。

 

12月 すべての片がついた。なんかぼんやりしちゃう。そりゃそーでしょ。

泉さんからLINEで、電話で話したいことがある、とくる。久しぶりに1時間くらいしゃべる。

 

その後長野に会いに行く。いろいろ話す。ギョーザパーティもやった。2回目ですが。

大食いをやめて、自分の仕事をみつけて、がんばって独立した泉さんは、おなじような土地の仲間とすごくいいつながりをもっていて、あー、起業、独立いいなーと思う。思っただけか。いや自分もやりたいと思い始める。

 

2016年1月 大食い世界戦が放映されたらしい。しかし私は見られないんだよーと思っていたが、矢戸さんがDVDをお送りしましょうか、と申し出てくれる。神だ…。

 

すごくおもしろかった。自分で言うのもなんだが、モリーVS魔女菅原が1回戦ってすごいカッコいい演出だと思った。決勝でやるんだろうなと思わせておいて、1回戦。

 

番組のDVDを見終わったあと、アメブロの旧ブログがオフィシャルになったままなのを、直してもらう。大食い世界戦のおかげか、オフィシャルの実績もあってか、すんなりいく。将来パン屋をやるためにも、この大食い戦の効果をいろいろ利用しなくてはと思う。そりゃそーでしょ。

 

2月~8月 おかげさまで今年は大食いの仕事が月イチくらいだがありまして、大食い仲間とも再会することが多く、みんな起業したり創業にむけて頑張っていたり、お店を経営していたりで刺激を受ける。それもよかったんだと思う。

 

4月あきらめがつくように、思い切ってパン屋の工房を作る見積もりをやるだけやってください、と以前お世話になったリフォーム会社の方に電話を掛ける。

 

以下次号( ´艸`)。