岩手県立美術館常設展第2期の常設展示室。

7月9日のコレクション・トークのテーマが「新収蔵作品」だったので、参加したのですが、

現在常設展示室に展示されている作品はオール新収蔵。

いま展示されている作品が新収蔵のすべてではなくて、2期の後期(8/23〜9/25)に展示替えでお目見えする作品もありますが。

美術館2Fの常設展示は萬鐵五郎室、松本竣介・舟越保武室、常設展示室に分かれているのですが、


常設展示室は中で4室に分かれています。


たいていその部屋ごとに雰囲気やカラー(文字通りの色味というかとカラフルな部屋はカラフルだったりする)が違っており、


今回の1番目の部屋は、


「幻想的な作品」の部屋と勝手に名付けてみました。毎回自分の中で名付けが行われている…。



晴山英(はれやま・えい 1924-2011)「羽化」。

すきな作家です。2014年に萬鉄五郎記念美術館で晴山英展があって、すっかりファンになりました。ほかの作品では幻想性は通底していても、この作品のような女神的な女性は見たことがなかったので、意外でした。


両腕を大きく広げたポーズは羽ばたきのようで唐突ですが、アルフォンス・ミュシャの大きな作品を連想したりもしました。その内部(?)に描かれているものは、名前のつけようのないものです。


あえて強引にタイトルとの関連を考えるなら、


蛹の羽化直前のドロドロの内部かなあ。幼虫からまったく形態の違う蝶々になる時、蛹の中でいったんドロドロになって細胞の組み換えが行われているんだと思うのですが、その内部? 

吉田清志(よしだ・きよし 1928-2010)「母子」。

母子のお母さんも赤ちゃんも球体と円柱でできているみたいなまるまるもりもり状態である。

キュビスムというと理知的で冷たい感じも受けるけど、この絵は明るい茶系で、生命力のようなものや暖かみを感じる。幻想的なんだけど、退廃的ではなくて、岩手の県鳥雉の目の周りの赤が差し色として効いている〜けどこれから雉鍋にしてたべるのだろうか。雉と山は岩手っぽいけど、お母さんはイタリアのマンマみたい。

 

  

 澤田哲郎(さわだ・てつろう 1919-1986)の「少年」1941年。痩せて不安そうな子どもの姿は戦時中の画家自身の寄る辺ない気持ちの反映だろうか。でもなんかこの絵の空気、松本竣介の「水を飲む子ども」(1943)に似てるなあ。


そして、額縁好きな私としては、今回、この1番目の展示室に、好みのデコラティブな額縁がいくつもあって大喜びだったのである。


竣介のお部屋は別なのですが、澤田哲郎と竣介は交友関係にあったし、同時代の画家なので、やはり額縁も似通ったものがあるのかな〜と思ったりする。 でも額縁は絵が描かれた当時のものとは限らないので、これは妄想にすぎないわけですが。

デコラティブの極み(額縁のことです)。

「男の顔」(1941)。



「ギター弾き」(1951)

痩せて細長く、ぐんにゃりしたフォルムに連想したのは、


{67F15768-5C40-427B-B5B8-C2E34BFB91A9}

例えばヤマザキマザック美術館のシャイム・スーチン「狩猟地の番人/祈る男」。

あの乳白色の女たち以前の藤田嗣治にも、こんなようなぐんにゃりした細長い人物たちが描かれている作品があったのですが、

澤田哲郎が藤田嗣治の弟子だと思うあまりの考えすぎ?

スーチンはエコール・ド・パリの画家の1人ですが、澤田哲郎がスーチンの影響を受けていると思うわけではなく、

シベリア抑留から帰還した澤田哲郎とユダヤ人だったスーチンとの間に共通する不安や飢えや押し殺した感情を受け取ってしまう、そういうことかな〜と。

私はおざわゆきさんの「凍りの掌」を読んで以来、画家の経歴にシベリア抑留というキーワードがあると、注目してしまいます。香月泰男のシベリアシリーズが有名ですが、澤田哲郎はあまり抑留体験については語らず、画家ということでそれほど大変なことはなかったと身内の方に語っていたそうです。でも零下30度〜40度のシベリアに2年もいて(澤田哲郎は45年に徴兵され47年までシベリアに抑留されています)、大変なことがなかったわけがないだろうと思い、語りつくせないから絵を描いたのではないかと思う。