森村泰昌 自画像の美術史 「私」と「わたし」が出会うとき
国立国際美術館(~6/19)
めずらしく予習していたので、森村泰昌さん初の映像作品が75分あると知って、
開館と同時に入りました。
ちなみに、上映時間は
10:10
11:25
12:40
13:55
15:10
16:25
17:40
でして、16:25と17:40は金曜日のみです。
10:10を見てから展覧会を回るか、展覧会をひと回りして11:25から見るか、
ちょっと迷ったのですが、勢いで最初の上映を見ることにして、
会場に入ったらガラガラで、いちばん前のビーズクッション席に陣取りました。ビーズクッションが3個あって、あとはシート席が30くらいかな。
この映像作品がすごくおもしろかった!!
12人の巨匠たちともりむら・ヤスマサによる美術史と自画像、画家と作品についての魅惑的な映像は、
森村泰昌の美術についてのいくつかの本を思い出させるし、ヨコハマトリエンナーレの章立ても連想させました。
美術館で流されている映像というと、日曜美術館の録画やインタビューがほとんどですが、75分の作品と言うのは貴重です。
ギャラリーショップでこの長編映像を書籍化したものがあり、うれしかったのですが、
演じる役に合わせて、声が変わる森村泰昌を五感で味わえる映像作品を見られた経験があればこそだな~と。
会場は、映像作品と一部の作品がB2Fで、
ほとんどの作品は3Fです
第Ⅰ部 自画像の美術史 は、
第0章 美術史を知らなかったころの「わたし」がいるから。
三歳、十歳、十六歳、二十三歳、二十四歳。
「わたし」のやわらかな響き(表記法でも響きは違いますよね)。
そして、
第1章 「私」の美術史
自画像の美術史(レオナルドの顔が語ること)
自画像の美術史(若きレオナルド/ダビデ)
驕りの春のうつくしきかな、美少年ダビデも森村泰昌で、首を打ち取られた ゴリアテも森村泰昌。
「自画像の美術史(デューラーの手は、もうひとつの顔である)
自画像の美術史(彫刻/デューラーの手)
映像作品の中に出てくる12人の巨匠(うち一人はマルセル・デュシャンですが、
「不在であることが存在の証だとの見解で、欠席」しており、11人)の作品の前にいくと、
映像のなかの森村泰昌の関西の訛りのある、湿り気を帯びた女の声や、破落戸だった男の声が聞こえてくるようだった。
「肌をごつごつとした岩肌のように描く癖がある」レンブラントについては、第2章にも多くの作品があり、
森村泰昌にとってレンブラントが気になるひとだったとしたら、レンブラントが「私」について語っていることも、森村泰昌が自身についてk分析し告白していることでもあるのか、
と考えたりする。
絵はなにも考えずに感じろというのは無理で、自分の中にある思い出の断片のようなものまで引っ張りだして、「私」とは誰なのか、考えずにはいられない。
森村泰昌の作品を見たり、文章を読むとそういうことを考えてしまう。