高等小学校を卒業してからの水木さんの学業と仕事の続かなさは、ご本人がなんどもマンガや本で描いているのですが、
見方を変えれば、ずっと自分にぴったりくる場所を探していたとも言えます。
この作品では学校名や年代が詳細にされています。
水木先生の学校行脚はつづきます。
今度は大阪の中之島洋画研究所へ。
中之島洋画研究所は前身を信濃橋洋画研究所といい、大正13年、当時東京の人口を上回る勢いのあった大阪に誕生しました。
昭和6年、小出楢重の死去とともに幕を閉じますが、
同年、研究所は中之島の朝日ビルディングに移転して「中之島洋画研究所」
としてさらに発展して行きます。(昭和19年戦争激化に伴い閉鎖)
同年、研究所は中之島の朝日ビルディングに移転して「中之島洋画研究所」
としてさらに発展して行きます。(昭和19年戦争激化に伴い閉鎖)
開催中!「信濃「信濃橋研究所の画家たち大阪近代洋画のあゆみ展」@大阪心斎橋(会期は終わりました)より
水木先生も動員され、南方の最前線で片腕を砲撃により喪い、終戦の1年後、舞鶴港から復員します。
『わたしの日々』には、その絵が所収されており、解説の南伸坊さんが、これはプロの絵だと感嘆しています。
この小学校で開かれていた美術学校で小磯良平に出会ったことを、インタビューでははぐらかすこともあったようですが、
水木さんのほんものの画家になりたいという気持ちと、つねに学ぶ場所を求めていた姿勢は、
「怠け者になりなさい」の名言のひととも思えませんが、この言葉の真意は、すきなことで一生懸命やってもうまくいかないこともある、そういう時はやすみなさいという、働き者に少しは気楽になさいというような意味らしく、
若い頃に怠けてはダメです!という注意も。全然怠け者になりなさいじゃないですよね(笑)。
水木さ先生は売れっ子マンガ家となり、多くのアシスタントを抱えますが(まだ少年の池上遼一も、つげ義春もその中にいました)、
仕事のない時期にはアシスタントたちに古い書物を調べさせて妖怪画を描く勉強をさせていたそうです。それがのちに作品になるのですが、
人並み外れて長く多い学校体験は水木先生の教育者としての資質に磨きをかけた気もします。リーダーシップはガキ大将時代から持ち合わせていたのですから。
武蔵野美術学校時代のエピソードは『昭和史』では戦後の混乱期を象徴して学校の中で食品加工がされていて、生徒たちが抗議したり、そこで講師の先生に絵描きは食えないと聞かされたりしていますが、
作品によってエピソードを変えているのも水木先生のプロ意識であり、サービス精神だと思います。
だから自伝的マンガがいくらあっても、みんな読みたくなってしまうのです。