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《小川千甕(せんよう ちかめ) 縦横無尽に生きる》
2015年12月8日~2016年1月31日
会場:京都文化博物館

(福島県立美術館 2014年10月11日~11月24日
泉屋博古館分館 2015年3月7日~5月10日)

福島県立美術館であったのに、なぜ行ってなかったのかなあ。

私が小川千甕という名前を知ったのは、2014年6月くらいだったと思う。銀座の美術書専門の古書店の閉店セールで、数冊の《藝術新潮》を手に入れまして、そのなかに、

海を渡った明治大正の画家たちの特集があったんですね。
小川千甕の名前もそのなかにあったと思っていましたが、小圃千浦と間違えているかも…。

厄介なことに名前も似ている上に、年齢も近く、
小圃千浦(1885-1975)、
小川千甕(1882-1971)と
どちらも海を渡ってはいるんですわ。

家に帰って調べなくても、

もう自分が二人を混同していたことは認めよう。


でも、

京都に生まれ、富岡鉄斎に憧れ、仏画を描き、浅井忠に洋画を学び、ルノワールに会い、マンガに手をそめ、日本画家となった人がいた!

ってチラシのコピー、めっちゃ心惹かれるんですけど。


どんなひと?って思うでしょ。

私はチラシミュージアムというアプリで美術展情報を楽しんでいるのですが、

「小川千甕」の展覧会があると知って間も無く、マルコポロリ!のロケが大阪であると聞いて、

神様グッジョブ!の気持ちでした。大食いと美術はつねにワンセット。私だけ?


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で、千甕12歳~14歳の仏画に仰け反る。

なにこれ。

最初からうますぎるんですけど。
パリに留学したら、マチスにお前の絵はうますぎると言われて悩む口だな。

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その後、二十歳で浅井忠に弟子入り。
兵役検査では近眼のため兵役免除になったそうです。この頃の日本はまだ余裕があったのかな。

千甕(せんよう)という画号は、ちかめとも読み、近眼のシャレでもあったようで、のちにマンガやいまだったらエッセイコミックと言いたい日記を描く千甕らしい。

この頃、昼は仏画、夜はデッサンの日々だったようです。


浅井忠と言ったら、高橋由一と並ぶ、明治初期に洋画を学び、日本に洋画を根付かせた一人、という認識だったんですが、それだけではなかったもよう。美術教育にも力を入れ、後進の育成にも尽力した人であったらしい。

もともと美術の勉強をしたことがないので、展覧会で出会った時が(少しだけだが)勉強するとき。


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この絵はほんとうに浅井忠の影響を感じる。
浅井忠も黒田清輝と同じくフランスに留学し、画家が多く住んでいたグレーの風景画を描いているけれど、それを思い出しました。

浅井忠は千甕25歳のときに他界します。

巡回展は福島県立美術館から始まったのですが、
福島県立美術館の増渕鏡子さんによる「小川千甕年譜」には、

千甕の作品や展覧会についてだけではなく、見た美術展や旅についても仔細に書かれていて、すごくおもしろい。

千甕は1882年生まれだから、萬鉄五郎より3つお兄さんだなあ、ニアミスとかなかったか?と思っていたら、

1913年、パリに留学する少し前に、

「春、読売三階でヒュウザン会を見る」とありました。ヒュウザン会は岸田劉生の強烈に個性的な性格から2回で終わっているのですが、

じゃ、萬鉄五郎の絵も見てるわけだ!と喜んだ私です。


その前年、1912年には京都市美術館で白樺主催の『ロダン展』も見て、会場で富岡鉄斎も見ている。



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さてこちらは打って変わって大津絵の図案。浅井忠。
ウソでしょー!とびっくりである。


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こちらが千甕の絵付けした器。

可愛い。

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仏画やデッサンや風景画は真面目で達者で、それだけでも充分じゃん!という感じなのに、千甕はパリ留学後、どんどん新しいものを取り入れ、変わっていく。

彼には洋画・日本画・書の国境線もないみたい。
こんな自由な屏風も初めて見ました。

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軸物にこの自由な踊り子の絵である。

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自画像、これは洋画で油彩ですが、もうちょっと暴れたら長谷川利行になりそうなタッチである。

長谷川利行は、1891-1940なので、あら!そんばに違わないわ。長谷川利行は池袋モンパルナスの画家たちとも交流があったので、もっと若い気がしていましたが、


気がしていただけだった。よくやる思い込み。生年だけでもちゃんと覚えないと…。

この後、

千甕は南画に向かいます。

藤島武二に言わせれば、大正期に西洋の表現主義や後期印象派などに対比して南画が再評価される流行があったそうで、

それは萬鉄五郎の南画研究ともすんなり結びつけられるので、

あ、わかった!

と思ったです。

千甕の絵はこの後、戦後の喪失感も相まって、南画に桃源郷を描く、まさしく縦横無尽の方向にひた走ります。

初期の仏画、デッサン、水彩、絵付け、絵日記、すべてがおもしろく、

千甕の画号に例えれば、大きな甕のなかに千の絵や本や書や人からの影響が流し込まれ、

ふつふつと滾って溢れ出たものが戦後の南画ではないかと思ったです。

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京都文化博物館の展示では、この米寿展自画像の隣に、硯や筆などの展示もありました。

日本画の保存のために前期後期の入れ替えがあり、見られない作品に後ろ髪を引かれるようですが、ここで会えてよかったです。