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きのう見てきた、


風流怪談 露と答へて ~鬼の業平 仏の双六~ 架空の劇団第17回公演 


会場:専立寺 (盛岡市名須川町3-17)

10月16日(金)19:30開演 17日(土)、18(日)19:00開演

まずパンフレット(1枚ものなのでリーフレットというべきですが)から。


タイトルの、「露と答へて」は、かの有名なる『伊勢物語』の、


白玉か 何ぞと人の問ひしとき 露と答へて 消えなましものを 

から取られており、チラシにも使われている業平におんぶされている女は、
藤原高子菜のだろうと思われます。

でも、それだけだったら「鬼の業平」の意味が通らん。

業平は鬼に后になるくらい高貴な女を殺された、悲運の恋人のはずなんだから。

鬼とは、業平から高子を奪い去った藤原家の比喩なのだと学校では習った気がします。

世に認められぬ仲の男女が逃げ落ちてゆく時に、夜の原に白露が光るのは、もちろん、儚い命を暗示しているわけで、『曽根崎心中』にもそんな一節があった気がします。





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舞台となるのはこちらのお寺が並ぶ名須川町の専立寺。

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画像はこうですが、実際には金色が照りかえって、ゴージャスな背景でして、
お客さんがみやすいように、ベンチシート(ふかふか)などが用意されておりました。

私は近くで見たいので、座布団席です。おかげで迫力があってよかった。


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お客さんが座る前に会場全体の画像を撮っておけばよかったな~。

こんな会場ってないな~と感動したので。いままでもお寺さんが会場の落語もお芝居も行ったことがあるのですが、後ろの席に座ると前が見えないんですよ。

でもこういうふうになっていたら、ストレスなしに見られると思います。でも前に座るけど!


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全体的な感想から言いますと、

鬼1鬼2、最後に動く地蔵の3人からなるパートは、
お寺の絢爛たる背景にマッチしていて、

前景の現代と平安時代が交錯し、男1(現代の男、ケンちゃん、オレオレ詐欺の男)が
自分のここに至るまでの過去を見せられ、現実に還って行く、

男2は…

というところが能や狂言のようだなあと。女1、女2は男たちの回想の中でよみがえり、
迫り、睦みあい、消えてゆく、まさしく露のような存在でした。いや存在感はありますけど。


能やギリシア悲劇・喜劇(もちろん無教養な私はどちらも活字でしか知らないけど)には

主要なお芝居をするパートと、その後ろで背景を伝えたり、歌をうたったりするパートがあり、

この舞台では、

二人(柱?)の鬼と地蔵がそれでした。


舞台の最初に圧倒的な存在感を見せてくれたのは鬼1・鬼2。


衣裳は生成りで、イメージは十二神将のようでした。鬼というと角の生えた鬼で、
滑稽なイメージですが、むしろ、闘将と言ったほうがいい。

ふたりの鬼がジャラーン、ジャラーンと金棒を衝いて高笑いする、


はーっはっはっはっは!

が耳について離れないほど、この鬼の登場は強い印象でした。


地蔵は小柄な女優さんで、ずっとセリフも演技もなく、
ひたすら背景になって微笑んでいるのですが、

(『ガラスの仮面』のマヤちゃんが「石の微笑み」で、人形役をやった時みたいなもので、
芝居の後景になっていて目立たないけれど、もし地蔵が地蔵の仮面を外したら、

舞台は台無しになってしまう。という意味では重要な役割です。そして地蔵は最後の最後に大きな芝居をするのであった)

小学生か?と思うくらい、邪心のない笑顔だったです。その笑顔をずっと続けていられるのがおそろしい。


一人のうらぶれた若い男が、ころ合いの店をみつけて入ってくる。
男は茶色のジャケットにズボン、片耳にイヤーカフをつけているところから、
堅気には見えない。

バーにはレトロなイケメンふうの男2のバーテンダーがいて、男1にカクテルを出し、
自分も一杯相伴に与りながら、ぬけぬけとした口調で男と話し出す。

ふたりの鬼たちが彼の女行脚を語り、ももとせにひととせたらぬ九十九髪の媼さえ女にしてしまう
その好色、いやすきものの達人ぶりをばらしてしまうわけだ。



男2には、かつて愛しい女を背に負って、あばら家に逃げ込んだ昔があった。
激しい嵐があり、鬼が女を食い殺してしまった。残されたのは女の頭部だけだった。


なりひら、なりひら、と彼を呼ぶ平安時代の高貴な女があらわれ、業平との道行、激しい雨と応戦する業平、明けて食い残された女の頭部を発見するまでを、過去にさかのぼって演じる。

その過去からいまの現代の男をもてなしているバーテンダーをバーテンダーのいでたちのままで
演じるのだが、いま思出だしてみると、鬼に向かって矢を放つところが脳内で勝手に狩衣烏帽子姿になっております。そういえばヘアースタイルも、烏帽子風だった。


業平の過去は『伊勢物語』と同じようで、比喩ではなく、ほんとうに鬼に食い殺されたのだ、という説明に残された頭があった、というところがおそろしい。

さらにおそろしいのは、アサシン…(これ以上は言えません)。
誰がなんのために女を殺したのか。しかし、女を守り切れなかった業平は、


心を無くして、鬼になる

と。


男2の過去はすでに男1にはお見通しのようだった。

あることから偶然知りあった女と同棲、塾講師をしながら子どもたちにも慕われ、楽しく充実した日々。
しかし女は適齢期をすぎ、自らも働いているのだが、男に安定を望み、
男はむなしく教員採用試験を何度も落ち、焦燥と自棄から詐欺団の一員となってしまう。

女は6車線を横切り、死んでしまうが、それは男に絶望した女の自殺行為だったのかもしれない。


ケンちゃん、ケンちゃん、と優しい声で、女が現れる。

ふたりの過去が演じられる。


いま書いていて気づいたのですが、ふつうの舞台だとたぶん、暗転や幕があるところですが、
暗転はないんです。ないんだけど、手前のお芝居だけがくっきり浮き上がって見えていました。


業平とケンちゃん。

考えたらどちらも、好きあった女を守れなかったダメ男であります。


そのふたりが、なぜか釜(ごはんを炊く羽付きの釜、だったと思うけど、
記憶違いかも)で2つのサイコロを振って、人生ゲームをはじめます。


業平の人生はともかく、ケンちゃんの人生はスタートから多難。

お父さんがけっこうなアウトローで家庭を顧みず、DV当然。

たまりかねたお母さんが離婚したあと、
ふたりの姉とケンちゃんのやりきれない地獄が繰り返されます。
どこまでもどこまでも落ちていくケンちゃん。
サイを振るたびに釜の中にかつての地獄が映し出されてしまうのです。


頭を抱えて、知ってたんだろう?知ってたんだろう?と業平につめよるケンちゃんですが、
業平はシレっとした顔でサイを振ります。

男1が振ったサイは、溺れかけた猫を助けようとして出会ったマイとの出逢いを見せます。

ここからマイちゃんが六車線を横切ってはねられるまでは、さきに演じられた通りですが、
ケンちゃんが辿ってきた悲惨な人生の果てに一瞬見えた光が、

またかき消された絶望を知ると、同情に堪えない。


過去をすべて見終わった業平とケンちゃん、
ふたりはどうなるのか。


最後にそれまでずっといちばん後ろで微笑みつづけていた地蔵が、スーッと花道を通って、
声を張ってお経を唱え、舞台は終わった。この突き放すような終わり方も、能・狂言のような趣があって鮮やかだったです。


鬼1・鬼2の役者は女優さんでしたが、ダイナミックないい意味で型に嵌った踊るような動きと高笑い、
かっこよかったです。

セリフの中に「イケメンな若者」というようなところがあり、舞台前列にいた息子の方をじっと見てくれて、ちょっとうれしい(笑)。

公演はきょう、あすとまだ2回あります~。お近くの方はぜひ♪